「火事場の馬鹿力?」
「……御堂」
「ああ、人間、生死のぎりぎりの土壇場になると通常考えられないような馬鹿力が出
るって言うだろ。 その馬鹿力について説明してほしいんだ」
僕達は授業の後、国文のキャンパスから少し離れた所にある医学部へ行き、やはり授
業を終えたばかりの医学部三年生、中浜宏を掴まえた。
中浜とはスキー同好会のサークル活動で仲が良くなり、冬の間は言わずもがな、雪の
無い季節でもよく一緒に麻雀をしたり酒を飲みに行ったりしている間柄だ。 こいつ
になら少々突飛な質問でもはばからず出来る。
三人で大学内の喫茶スペースに入った。
「つまり、人間ってのはどの程度まで馬鹿力が出せるのかって事が聞きたい訳なんだ
けど」
「越田の事か?」
「そう」
当然、中浜も昨日の事件の事は知っている。
「あれなあ……。 グランドピアノ投げ飛ばしたってやつやろ」
「火事場の馬鹿力ってのはそんなに通常出し得ないところまで出し得るものなのか?」
「あのな、火事場の馬鹿力ってのは、よく人間の限界を超えた力を出す事だっていう
ふうに言われてるけど、ありゃ間違いや」
「というと?」
「人間の身体にはふたつの限界があってな、ひとつは生理的限界ってやつで、それは
骨格、筋肉、カロリーの採り方、酸素の消費量なんかによる物理的な限界やな。
それともうひとつ、心理的限界ってのがあって、これは自分の身体を守るために大脳
が制御しているものなんやけど、その、専門的に言うと、大脳の興奮水準に規定され
る能力の上限ってやつやな。 通常我々が体感出来る肉体の限界ってのは、この心理
的限界の事を言う」
「え? 生理的限界の方が体感出来るんじゃないの? 身体の能力の限界って言うのな
ら」
顎に両手をあてて聞き入っていた宣子が、間違ってるんじゃない、とばかりに言った。
「いや、そうやないんや。 判りやすく言うとやね、生理的限界っていうのは、その個
人については一定した値を持つもので状況によって上下したりしない。 それに対し
て心理的限界ってのは、その時の私欲とか意志とか興奮状態の上下によって変動する
ものなんや。 通常我々が感じている限界ってのがこれで、生理的限界の60から70%
くらいにわざと制御されている。 これは自分の肉体のメカニズムを守る為に意志の
力で動かせない部位で大脳が制御しているんやね。 生理的限界ってのは、それこそ
人間の肉体の絶対的な限界な訳やから、その限界を意識的に越える事が出来てしまう
と、筋肉組織や骨に異常をきたしたり、それらを破壊してしまう危険性がある。 自
己の肉体を破壊したり生命にかかわってきたりする。 それを押さえるのが心理的限
界ちゅう訳やね。 自動車のエンジンをフルアクセルでレッドゾーンいっぱいまで回
し続 けるとオーバーヒート起こしたりバルブサージング起こしたりして壊れてしま
うやろ、だから車を運転する時には回転をレッドゾーンにまで上げないように注意す
る。 まりそれが制御であり、心理的限界って訳や」
「なるほど、でも車だったらその気になればアクセル踏み込んでいつでも限界まで行け
る訳だけど」」
「人間の場合はその気になっても行けないようになっているんや。 大脳が無意識に制
御してるから。 それに筋肉疲労や痛感なんかもブレーキになってるし」
「なるほどね」
「で、これからが火事場の糞力なんやけど、つまり、人間土壇場に立った時、一瞬大脳
が制御を解除して、心理的限界が限りなく生理的限界に近づいてしまうって事なんや。
判るか、火事場の糞力ってのは肉体の限界を超えた力なんかじゃなくて、元々持って
いる肉体の限界をギリギリいっぱいにまで引き出している事なんや」
「じゃ、越田君には元々グランドピアノを持ち上げる力があった?」
「本当に持ち上げたんなら、そういう事になるな」
「ちょっと待てよ、さっき、心理的限界は生理的限界の60から70%くらいだって言った
ろ。 そしたら越田は普段から150キロ以上のものを持ち上げる力があったって事
になるぞ。 そんな馬鹿な」
「常識的に考えたらな」
中浜は顎を撫でながら言った。
「越田程度の体格でグランドピアノを持ち上げるのは、いくら瞬間的に生理的限界いっ
ぱいまで絞り出しても無理やろ。 医学的見地から言うと、人間の身体はそんなふう
に出来ていない。 でも実際に持ち上げたんやから、やはり現時点での医学上まだ解
明されていない何かが越田の中に要因としてあったという事やろ」
「それは何?」
宣子が身を乗り出して聞いた。
「だから解明されていないから判らない」
「そうか……」
「愚問だったね」
「なによっ」
宣子はぷいっと横を向く。
「それじゃ中浜。 その生理的限界ってやつは、その個人の持つ、ある一線以上には絶
対に越えないものなのか?」
「いや、越えようと思えば越えられる」
「え?」
中浜がいとも簡単に言ったので驚いた。
僕も思わず身を乗り出す。
「どうしたら越える?」
「筋繊維の径を太くする。 筋肉中の毛細血管を発達させる。 つまり筋肉の横断面積
を大きくする事やな。 それと酸素を摂取するために肺とか循環系の機能を上げてエ
ネルギー、つまりグリコーゲンを効率良く筋肉内に回るようにしてやる事。 そして
その筋肉を維持出来る骨格の増強。 というところかな」
「なによそれ、そんな人体の組織や構造なんて簡単に変える事なんか出来る訳ないじゃ
ない」
「そりゃ簡単な事やないけど」
「出来るの?」
「毎日欠かさず筋力トレーニングを続けて、カロリー、栄養をバランス良く取り続ける
と筋力はアップしていくし、その基礎となる骨格も作られていく。 つまり生理的限
界が上がるって事や」
「…………」
「……あのな、今僕らはそのトレーニングによって鍛え上げられる常識的な限界を遙か
越えた部分の話をしてるんだぜ。 トレーニングしたら筋肉が鍛えられるなんて判っ
てんじゃん」
「真面目に聞いてて損しちゃった」
宣子は乗り出していた上体をまた引っ込めた。
「そやからそれはさっきから、まだ解明されていないって言うてるやろ。 そんな超人
的な力の解明が出来たら俺はとっくにノーベル賞取ってるやんか」」
「そうでした。 一介の医学生に愚問をしていまいました」
「そうね」
僕もなんだか力が抜けてしまった。
しかし確かに中浜の言う通りなのだ。
そんな超人的な力の源が解明されればオリンピック記録なんてとっくに大幅に塗り替え
られているはずなのだから。
「ところで、ここはお前らのおごりやな?」
「ああ、授業料は払うよ」
「ほなコーヒーをもう一杯おかわりしてもええか」
「いいけど、そんなコーヒーがぶ飲みしてたら胃を悪くするんじゃないのか」
「ゆうべ、レポート書いてて半徹したもんだから眠くていかん。 コーヒー飲んで目を
覚まさんと」
「そうね、私もゆうべ遅かったから、もう一杯飲もうかな」
!
「………ちょっと、中浜」
「ん? なんや」
「どうしてコーヒーを飲むと目が覚めるんだ?」
「どうしてて、そりゃコーヒーの中に含まれてるカフェインが中枢神経に興奮剤として
作用するからや」
「興奮剤か……」
「何? 御堂」
「いや、よくスポーツ選手が試合の前に薬飲んで実力以上の力を出していい記録出した
りするだろ? 何かの記事で読んだんだけど、その薬ってのがカフェインの一種だっ
て事書いてあったからさ」
「ドーピングか」
「その薬の力で生理的限界を超えられる場合もあるんじゃないか」
宣子がまた身を乗り出してきた。
「ドーピングって言ってもいろいろあるからなあ」
「薬の種類がか?」
「一般的に薬物投与によって一時的に運動能力を高める事をドーピングって言うんやけ
どな。 一時的に精神を興奮状態にさせるためのものとか、筋力そのものを増強させ
るものとか、反対に精神を鎮静させたり抑制させたりするものもあるから」
「一時的に筋力を飛躍的に増強させるやつってのは?」
「そこまではな。 最もよく使われてるのはアンフェタミンやけど。 実際の例で言う
たらアンフェタミンを水泳選手15人に30ミリグラムずつ投与したところ、その20分後
くらいから、それぞれに筋力増大が見られて、それが約1時間続いたってのがある。
その時の彼らの最大筋力は通常の上体で発揮した値より平均で13%も増大してる」
「13%? それだけ?」
話の前後から僕はそんなもんだろうと思っていたけど、宣子はなあんだという感じで、
またそっくり返った。
「それだけって、人間の筋力を13%もアップさせるって大変な事なんやで。 その筋肉
の許容をはるかに越えた負荷が生まれるって事やから、たとえ一時的にしろ筋肉組織
の破壊が起こったり、本来脳に送られるはずの酸素がアンバランスに筋肉の方に送ら
れたりして脳機能障害が起こったりするんや。 何度も続けてると命取りにもなる」
「ふーーん、怖いんだ。 でも、その薬でも越田君の場合の答にはならないね」
宣子の言う通り、13%程度のアップではグランドピアノを持ち上げるまでには至らない
だろう。 越田の生理的限界はがどのくらいか判らないけれど、仮に100Kgくらいを持ち
上げられるものだったとして、それが113Kgになるにすぎない。 グランドピアノの重量
には遠く及ばない。
「他には?」
「そうやな。 ホルモン剤も筋力を増大させる作用があるな」
「脳下垂体から分泌されているやつか?」
「いや、蛋白同化テスロイドって言うてな、睾丸から分泌される男性ホルモンのテストス
テロンていうのを誘導して筋肉量や筋力の増大を図るもんなんやけど」
「そいつは効果大きいのか?」
「いや、これは効果て言うよりホルモン分泌を外部的要因でコントロールして男性化を進
めようとするもんなんや。 適切な栄養が保たれてる時にステロイドホルモンを摂り続
けてたら体重は増えてく。 それも筋肉が増えていくんやな。 つまり筋力の増大や。
平たく言うたらステロイドホルモンて言うのは一時的な筋力アップを図るためのドーピ
ングやなくて、本質的に筋肉の量を増やすためのものなんや。 それでもせいぜい20%
程度も上がればええ方やろ」
「アンフェタミンより成績いいな」
「そやけどこれは副作用が大きい」
「副作用ってどんな?」
「肝臓とか心臓血管系、それに生殖系に異常が現れるんや。 死ぬ事もあるし」
「たった二割の筋力アップで命取りはかなわないな」
これはいくら考えても割が合わない。
しかし記録を競うスポーツ選手なら命を懸けてもと思うのだろうか。
「それに、ドーピングに使う薬物はほとんどが習慣性持ってるし健康上有害なものばかり
やからな」
「習慣性ってのは麻薬みたいなものもあるって事か?」
「もちろん。 ……そうや、思い出した。 これはアメリカでの実例なんやけど、エンジ
ェルダストっていう麻薬があってな、たぶんヘロインかエフェドリンの一種やと思うん
やけど、こいつを摂取した黒人の青年が重さ2トンもある車をひとりでひっくり返した
って記録がある」
「2トン!?」
「ひとりで?」
グランドピアノの比じゃない。
それこそ超人だし、人間の限界なんてはるかに越えている。
「ああ、本人はラリって意識の無い状態だったらしいけどな」
「さっきの説に従えば、そいつは生理的限界が高かったという事になるけど、その黒人っ
てのはプロレスラークラスだったのか?」
「そのへんはよく判らんのやけど、麻薬常習者やからまともなスポーツマンとは考えにく
いな。 もっもとプロレスラーでも無理なんと違うかと思うけど」
「実話か?」
「ちゃんとした学者の書いた本に参考文献として出てたから本当やろ。 けど、完全に持
ち上げた訳やなく、ひっくり返しただけやから実際には2トンまるまるの重量を持ち上
げた訳やないし」
「半分、いや、四分の一でも500キロだぜ」
「出来ないよ」
「でも実話や」
「そのエンジェルダストっていうのは筋力を異常に増大する作用があったって事か」
「そうとも考えられるけど、それだけやないやろな。 解剖学的になんらかの要因があっ
たとしか思えんな」
中浜も首を傾げながら言う。
医学的に考えても異常な状態があったと言う事だ。
という事は越田の一件についても全くの不可能という事ではないと思える。
「それは医学書か何かに参考文献として書いてあったんだろ? その文献ではどう解釈し
てた?」
「解明出来ない例として書いてあった」
「……そうか」
著作物を出版出来る学者が解明出来ていないのだから、この場で僕達がいくら論議しても
糸口すら掴めるはずもないか。
「じゃ結局医学的な見地から見ても越田君のケースはどこにも見あたらない訳なんだ」
宣子は期待はずれだったって顔をしたが、もともとこの程度で解明出来るものじゃないと
も思っていた。
「すまんけどそんなとこやな、現時点では」
「現時点?」
「ああ、人間の身体にはいまだ解き明かされていない部分がたくさんあるからな。 常識
では説明のつかないところもいっぱいある。 そんなもんをひとつずつ解明していくの
が医者や学者の役目かと。 日々研究も重ねてるから、いつかは解明される時も来るん
やて。 その時点で越田の異常な怪力の謎も解き明かされるかもしれんしな。 それに
越田が見つかって、その身体を調べたらもっと早うに判るかもしれんし」
中浜の目が医者の卵としての好奇心で光った。
もしかしたら、越田の事件を知った医者や学者は皆同じように思っているかもしれない。
へたに捕まったりしたら、そんな連中に身体中、解剖されて調べまくられるかもしれない。
もし越田が本当に超人的な身体の持ち主だとすれば、それの筋力を欲しがる人間はそれこ
そ無数にいるだろうから。
「…………」
「……ね、御堂、行こう」
宣子も僕と同じように思ったのかもしれない。
その目から好奇の光が消えて、反対に哀れみのようなものを頌えていたから。
「そうだな、中浜、悪かったな、時間取らせて」
「いや、俺にも興味のあるとこやからな。 コーヒー、ごちそうになっとくわ」
「そんじゃ」
僕達はまだコーヒーを飲もうとしてる中浜を残して喫茶スペースを出た。
「……ん?」
「越田君、捕まったらどうなるんだろう?」
「ブタ箱行きだな」
「そういう意味じゃなくて」
「……知るか」
僕達は手をつないだまま校門を出て、反対方向に分かれた。