僕は時として、自分の甘さ加減が嫌になる。
「もし越田が、君のいるのを見て、出てこなかったらどうするよ」
旧本館裏は、昔、学校設備機材等の倉庫として使われていたところだ。
僕は、越田はもう東京を離れていると思っていた。
「!」
これはっ!!
ベンツの後部がゆっくりと持ち上がるっ!!??
越田っ!!
越田がベンツの後部バンパーを掴んで持ち上げている!
僕は呆然と立ち尽くしたままだった。
運転手が開いたドアから飛び降りて地面に転がった。
運転手は腰を抜かしたらしく、喉から空気の漏れるような悲鳴を上げながらいざりのように後
「どういう事だ? どうしてそんな力が出せるんだ。 それはお前の力か? お前は人間か?」
バリバリッと音をさせて、その壁を素手で左右に破り、開いたっ!
人間やりうるレベルを遙かに越えている。
越田はその壁の裂け目から外に出た。
こいつには大丈夫だろうと、自分の秘密の悩み事をうち明ければ、翌日にはほとんどの
友人達に知れ渡っていたとか、友人の彼女が中絶するので手術の承諾書の連帯保証人にな
ってくれと頼まれて、軽い気持ちでサインしたら、そいつが金を払えなくて僕のところに
手術代の請求が来たりとか。
はたまた、ラブレターを代理で手渡したら、僕がその彼女に惚れているといった噂があっ
という間に飛び交うとか。
とにかく身近な友人を簡単に信用してしまうものだから、随分、今までに痛い目にあった。
今回にしてもそうだ。
宣子が僕の前で、越田の行方について自分の推理を断言的にまくしたてるものだから、僕
は、ついうっかり、今日、越田と会う約束をしている事を喋ってしまった。
ひとりで来てくれって言われていたから、会うって事だけ言って、行くのはあくまで僕ひ
とりでと言い切っていたのだが。
宣子である。
事件の中心人物に会いに行くという事に興味を示さない筈がなかった。
断固、私もついて行くと言って、僕の手を離さなくなってしまったのだった。
宣子が人一倍好奇心が強く、しかも今回の事件、とりわけ越田に関しては多大な興味を示
していただけに、本人に会うなんて言ったら、私も行くって言い出すくらいは、少し考え
れば判る筈だったのだ。
そのへんのところを深く考えなかった僕は、今さらながらに自分の甘さ加減に嫌気がさし
ているところだ。
「大丈夫よ。 私は車の陰に隠れているから。 御堂、ひとりで来た事にしとけばいいのよ」
「隠れているところを見つかったらかえって気分を害するぜ」
「その時はちゃんと出て、謝って、私も仲間に入れてってお願いするわ」
「あいつ、そんなに女の子に甘くないぜ」
「御堂、友達でしょ。 そのくらい話つけてよ」
「その友達を裏切ろうってのに?」
「じゃ、私を裏切るの?」
「いや、そういう訳じゃ………」
「ね、お願い」
「………」
僕は本当に甘い。
こんな会話を繰り返しながら、結局はふたりで旧本館裏まで来てしまったのだから。
大げさな鉄骨梁をむき出しにしたままのおおざっぱな建物。
今は大学職員、主に学長、教授クラス車の駐車場になっている。
つまり、偉いさん専用の屋根付き駐車場という訳だ。
そんな車を数十台分停めておけるスペースがある。
「すごい車がいっぱい置いてあるね」
「私立大学の教授クラスはよく儲かるんだろ」
「車はすごいけど、この建物、なんだか薄暗くて気持ち悪い」
「昔の建物ってのは、みんな窓が小さいんだな。 構造上の問題なんだろうけど」
「古い資材や訳の判らない機械なんかも置いてあるから余計に気味が悪いわ」
「倉庫のなごりだね。 それより、ほら、そろそろ離れてろよ」
「う、うん……」
「ひとりじゃ心細いんだ」
「そんな事ない。 ……こっちの柱の陰にいるから」
宣子は入り口脇の鉄骨柱の陰に入った。
僕は建物の中央まで歩いて行った。
時間は五時ジャスト。
越田はまだ現れない。
来るとしたら入り口からだ。
僕は開いたままの入り口に向かった。
少し横に目をやると、柱の陰に隠れている宣子のシルエットが見える。
夕暮れだけど、外はまだ明るい。
名古屋とか大阪とか。
あるいは信州や東北の片田舎とかで身を隠しているのではと思っていた。
保存派が匿っているとも考えられるけど、その線は警察がしらみつぶしに洗っているだろう
から、案外越田はほととぼりが冷めるまでのんびりと温泉にでもつかっているのではないか
と漠然と考えていた。
いくら重傷を負わせたとはいっても、たかが傷害なのだから、いくら警察でも殺人事件ほど
にはしつこく追いかけ回したりはしないだろうと思うから、それまでの間は東京を離れてい
るのではないかと。
そう思っていたのに、こんなところに呼び出すなんて、越田はその裏をかいて東京にいたんだ。
よほど潜伏先に自身を持っているという事か。
誰かが入って来た。
僕はとっさに近くの車の陰に隠れた。
越田のシルエットではないのが瞬時に判ったからだ。
二人いる。
隠れている僕の前を通り過ぎた。
学長だ。
広都大の角沢幾匡学長。
もう一人は運転手だろう。
二人は建物の一番奥にあるベンツのところまで行き、乗った。
エンジンがかかる。
『早く行ってくれ。 余計なのがいると越田が現れにくいじゃないか』
もう五時を三分まわっている。
少しアイドリングをしてから、ベンツは動き始め………ん? 動かない。
エンジンの回転は上がっているのに?
「きゃっ!」
僕より先に宣子が声を挙げたっ!
誰かがベンツの後ろにいるっ!
後輪が宙に浮き、空回りをしているのだ。
越田はそのままどんどん持ち上げていくっ!
運転者が異常に気付き、ドアを開けたが、その時には車体はもう45度以上も持ち上がっていた。
そして、越田はバンパーを目の上にまで差し上げたっ!!
この間の集会の時のように、信じられないものを見ていた。
学長は中に入ったままだ。
越田は渾身の力を込めて、さらに車体を持ち上げていく。
ついにベンツは逆立ちの状態になった!
そして、そのまま、真っ逆さまに倒れ、地響きと共に裏返しになった!!
ルーフはへしゃげ、ガラスが飛び散るさまがスローモーションのように見える。
ひとしきりの地響きの後に、越田が平然とした顔でこちらを見て立っていた。
ずさり、そして四つん這いになり、入り口までそのままの格好で犬走りをして行った。
宣子も目を丸くして立っている。
僕が叫んだのに対し、越田がゆっくりと口を開いた。
そして、驚くべき事を言った。
「御堂。 お前は、この広都大に昔から伝わる超人伝説を知らないのか」
「超人伝説?」
「広都大に医学部が出来たのが70年前だ。 医学部と言ってもな、70年前のそれは、治療の為
の医学を教えるんじゃなく、超人を作り出す目的で作られた医学研究所だったんだ」
「何?」
「戦前、戦中にかけて細菌研究をした満州の石井部隊のように、軍事目的で人間の肉体的能力
を飛躍的に高める研究をしていたんだ」
戦時中の細菌や毒ガス研究を国家がおこなっていたというのは知っているが、その類に広都大
が荷担していたっていうのは聞いた事がなかった。
「そして、その研究は60年前に成功していた」
「60年前!?」
「俺を見ろ、御堂。 これが研究の成果だ」
越田は自分の身体を誇示するように仁王立ちになっている。
そして、その成果は僕の目にもはっきりと示されたのだ。
「どうしてお前がそんな研究にかかわっている?」
「こいつが汚い真似をしようとしているからだ」
越田が裏返しになっているベンツの横っ腹を蹴った。
それを合図のように、割れてしまった窓から角沢学長がよれよれになって這い出してきた。
額から血を流している。
「こいつが体育会なんかを使って昔の研究をほじくり返そうとするから、我々がそれを守る
為に、こうして出てこなきゃいけなくなったんだ」
越田が学長に近づき、ひきずり起こそうとしたが、その時、旧講堂入り口かせ数人の人が入
ってきた。
さっき逃げ出した運転手が人を連れて戻って来たんだ。
「ちっ。 御堂、また連絡する」
そう言った越田は後ずさり、奧にまで行き、スチール製のスパンドレルの壁に手をかけた。
そしてっ。
スチール製の壁を!
「越田っ。 待ってくれっ」
僕はすぐに追いかけて行き、壁の裂け目から外を見たが、、背の高い外壁があるばかりで、
越田の姿はもうどこにも見えなかった。