「壱岐教授の孫が女の子だったとは思わなかったな」
「あれ、付属の制服よ」
誘拐現場から約三十分走って、車は中浜のアパートに着いた。
㈰筋繊維の太さ径の増大
とある。
「少し早いけど、そろそろ電話かけてみよう」
「戦時中、薬研はどんな研究をしていた? どんな方法で超人を作り上げた?」
僕はいよいよ真相に踏み込もうとしていた。
「孫だって男も女もいるわよ。 男しか思い浮かばなかった御堂が単細胞なんだ」
「しかし、ある面ではやりやすくなったな。 いかつい男より体力が無い分かっさらいや
すい」
付属の生徒課で壱岐教授の孫、壱岐麻理江の住所を知った僕達は家と最寄り駅の中間点の
人通りのない小路に宣子の運転する車を停め、その中で下校してくる麻理江の帰りを待っ
ていた。
「そんなの関係ないよ。 大声出されて人が寄ってきて、その子が泣きわめいて、善良な
一般市民に取り押さえられて。 女の子自身に力がなくったって同じ事よ」
「大声出す間もないくらい、すばやく行動せんといかんな」
「ナンバー、大丈夫だな」
宣子の車のナンバープレートにはガムテープを貼ってある。
「大丈夫や。 そう信じよう。 そやないとでけへんで」
「遅いな」
「麻理江って子はテニス部でしょ。 付属のテニス部ってけっこう強いみたいだし、遅く
まで練習やってるのよ」
もう日は落ちかけている。
もっとも、暗くなってくれた方が作業はやりやすい。
「私立はいいよな。 僕は都立でさ、夜は夜間高校になるもんだから、クラブの練習は絶
対に五時までに終わらされるんだ。 あんなんじゃ、どのクラブもまともに練習出来な
いし、強くなれないよ」
「そうね。 高校野球でもテニスでも剣道でも、全国大会に出れるのはほとんど私立だも
んね。 しょせん練習量が違うもんね」
「公立高校は事なかれ主義で、エキスパートを育てようという意識が無いからだよ」
僕の通っていた高校には格闘技部は剣道部しか無い。
柔道、空手、ボクシングなどのハードな格技は危険だといって顧問のなり手がないからだ。
グラブの練習中に部員が事故で怪我したり死んだりしたら顧問が責任を取らされる。
それが嫌さに、事なかれ主義の教師達は格技部の顧問になりたがらない。
事故の少ない球技部や文化部には顧問のなり手はいくらでもいるというのに。
「ん?」
夕暮れの小路を髪の長い、制服姿の高校生がこちらに向かって歩いて来る。
「あれかな?」
「顔が判らんだけになんとも言えんな」
「たぶんそうだろ。 ほれ、行くぞ」
僕と中浜はサングラスをし、車の中に身を潜めて、その子が通り過ぎるのを待った。
帰りを急いでいるのか、少し早足で通り過ぎた。
宣子が運転席の窓から
「壱岐さん」
と声をかけた。
その子は、はっと立ち止まり、振り返った。
間違いない。
僕と中浜は車から飛び出し、手にした毛布を唖然としたまま立ちすくんでいる壱岐麻
理江の頭からすっぽりとかぶせ、そのまま抱きかかえて車の中に押し込んだ。
宣子が車を急発進させる。
小路から本通りまで出たところで、やっと自分の身に何が起こったのか理解出来たら
しい麻理江が毛布の下で暴れ出した。
「いやぁっ、何するのっ、やめてーーーっ」
両手は毛布の下にくるみ込んであるので動かせないでいるが、脚を思い切りばたつか
せて、足元を押さえている中浜を思いきり蹴り上げた。
「い、いたっ」
僕はともかく上半身を押さえている。
宣子はけっこう冷静に車を走らせていた。
身動き出来なくなった麻理江は毛布の下で鳴き声を上げはじめた。
女の子の泣き声ってりはどんな状況であっても、聞く側の胸を痛める。
麻理江はかつて体験した事のない恐怖と不安で声を上げずにはいられないんだろう。
僕は心底そんな麻理江を可哀想だとは思いながらも抱えている手をゆるめる訳にはい
かなかった。
僕達は麻理江の身体にさらにもう一枚毛布をかけ、ビニール紐で縛り、人間の身体だ
判らないようにして、中浜の部屋までかつぎ込んだ。
「大丈夫だったかな?」
「見られなかったとは思うけど」
全く薄氷を踏むような思いだ。
麻理江は毛布に包まれたまま横たわっている。
もう泣きやんでいるが、見えないながらもまわりの様子を窺っているようだった。
「麻理江さん、ごめんね。 こんな手荒な事しておいてこんな事言うのもなんだけど
私達、あなたに気概を加えるつもりはないの。 ある目的があって、どうしてもあ
なたには二、三時間なんだけど、ここでじっとしていてもらいたいの。 そしたら
必ずお家に帰してあげるから。 本当よ。 絶対に乱暴したりしないから。 もし
この男達が何かしようとしたら私が責任持って守ってあげるから。 だから、ね、
お願い。 しばらくの間、このままでいてほしいの」
宣子は毛布のかたまりに向かって優しく話しかけた。
麻理江はおとなしくなっている。
やっぱり同性に優しく言われると安心するのだろうか。
「……どうして? 誘拐?」
麻理江が小さな声で言った。
「ううん、いえ、うん、誘拐っていえばそうかもしれないけど。 身代金なんか要求
するつもりはないの。 ほんの少しだけ、あなたのお爺様にお話を聞きたいの。
お金じゃないの」
「……お話?」
「うん……あなたには判らない事。 だから、少しだけ我慢していて」
「…………」
我々の真意を理解してもらえたかどうかは判らないけれど、とりあえず大声を出した
り暴れたりする事はなさそうだ。
「時間的には、もうええかな」
「そうだな。 普通ならもう帰宅している時間だろ」
「それじゃ、第一報を」
僕はこのために用意したプリペイド携帯をプッシュした。
コールが一回も鳴りきらないうちに相手が出た。
「はい、壱岐でございます」
年輩の女性の声だ。
麻理江の母親だろうか。
「もしもし、麻理江さんのお母さんですか?」
僕はわざと声のトーンを落として、ゆっくりと喋った。
「……はい、そうですが」
不審さを悟り、警戒したような答え方だった。
「麻理江さんを預かっています」
「………なんです。 どうしう事です? あなた、どなた?」
声が震えた。
瞬時に自分の娘がどういう状況になっているかを悟った声だ。
心が痛む。
「こちらが誰であるかは答える訳にはいきません。 こう言えばどういう事かお判り
になると思います」
「ちょっとっ、どういう事ですっ。 麻理江をどうしたんですっ」
「まだ何もしていません。 まだ」
「お金ですかっ? お金ならいくらでも出します、だから」
「要求は次の電話で出します。 それまでの間、どこに電話をかけてもかまいません
から、しばらく待機しておいて下さい」
「待機って、あなたっ、麻理江はっ、麻理江はっ」
僕は携帯電話をそっと毛布ごしに麻理江の耳元と思われるところに押しあてた。
母親の半狂乱の声が耳に届いたのか、とたんに毛布がくねりだし、
「お母さんっ、お母さんっ、私っ」
と叫んだところで僕は電話を切った。
麻理江の声は母親に届いただろう。
「たぶん、これで警察に通報するね」
「うん、警察には報せるなって言わなかったからね」
そんな常套文句は言う必要はない。
「すぐに警察が飛んできて電話機にレコーダーをセットするんだろうね」
「もう二度とかけないけどね」
僕達の目的は身代金の要求じゃない。
親の家に何度も電話をする必要はないのだ。
いくらレコーダーを仕掛けられようが、逆探知の用意をされようが構わない。
目的は大阪だ。
「すぐに壱岐教授のところにも知らせるかな?」
「たぶんね」
「一応三十分待とう」
中浜は落ち着いて言った。
僕と宣子は今犯罪を進行させているところだという緊張感から、いくぶん浮き足立っ
ているところがあるが、中浜にはそれがない。
根本的に犯罪に対する免疫が出来ているのだろうか。
本に埋もれて目をつぶり、瞑想状態に入った。
僕も畳の上にひっくり返る。
宣子は麻理江を膝に抱き、膝枕をさせるような格好で毛布ごしに頭を撫でてやってい
る。
「麻理江ちゃん、テニスやってるんでしょ」
「…………」
「うまい?」
「……ううん」
毛布の下からくぐもった声で答える。
少し余裕が出てきたのかもしれない。
「うまくなりたい?」
「うん」
「インターハイに出れるくらい?」
「うん」
宣子は優しく喋りかけ、少しでも怯えている心を和ませようとしている。
「普通の子が普通に練習してもなかなか出れないのよね」
「………」
「よっぽど才能のある子がそれなりの環境で育って、血のにじむような努力をして、
それでやっと一握りの人達が出場出来るんだものね。 高校野球だって同じよね。
立派なグラウンドを持ってて、優秀なコーチや監督がいて、練習時間もたっぷりあ
って。 プロみたいな練習して。 それでやっと甲子園に出られるんだもの。普通
の子じゃなかなか出れないよね」
「…………」
「それでね。 もし、もしもよ。 練習とか何もしなくても、飲むだけで自分の筋力
が倍増して、すごいスピードのサーブが打てたり、ボレーやスマッシュなんかが超
人的なスピードで打てるようになる魔法の薬があったとしたら、飲んでみたい?」
宣子はさりげなく、とんでもない事を言っている。
麻理江が壱岐教授の研究の事を知っているかどうかの探りを入れているのだうか。
「……判んない」
「飲んで試合したら、インターハイでも優勝出来る薬だとしたら?」
「でも、怖い。 それに……みんな、おかしく思うし」
その通り。
それまで全くその素地のなかった者がいきなり超人的な力を発揮すれば周囲が納得し
ない。
越田に対する周囲の目がそうであるように。
「そうよね。 そんなの不自然だし、やっぱり自分で努力して、それで強くなった方
がいいものね」
宣子は僕をちらりと見た。
なんとか超人の秘密を手に入れ、出来る事なら自らの限界を高めてみたいと思ってい
る僕に対する当てつけがましい目だ。
僕は宣子からの目線を外して寝返りを打った。
周り一面に散らばっている本に目を向ける。
すぐに『体力と疲労』『スポーツのトレーニング』『薬物による神経作用』という表
題が目に入った。
積み重ねてある比較的上の方に置かれてあるところを見ると、これらは最近になって
入手したものなのだろう。
中浜はやっぱり筋力増強について勉強しているんだ。
その中の一冊を取り出して開いてみる。
脊髄反射とか筋緊張とかについて詳しく書かれてある。
専門用語が多くて理解出来ないので飛ばし読みをする。
『トレーニングでスポーツの記録はどこまで伸びるか』という小題があった。
トレーニングによる筋力増大の要因として、
㈪筋肉中の細血管の発達
㈰+㈪=筋肉の横断面積のアップとなる。
これらは子地上的にトレーニングを続ける事により増大し続けるが、おのずと限界が
生じる。
つまり、
この筋面積を維持出来る体格
酸素を摂取する肺や循環系の能力の限界
エネルギー発生能力(グリコーゲン)食事の摂取能力
などによるものである。
早い話が、いくらトレーニングを積んでも、それなりの体格を持っていないと、それ
なりの筋力しか持つ事が出来ないという事だ。
これから考えると、越田の体格であの力はどだい無理な話で、理論上ありえない事に
なる。
それが起こり得ているという事は、旧日本軍が研究していた超人化の理論はそれらの
枠外にあるという事だ。
まったく異質なものだったんだう。
コペルニクス的転回というか、逆転の発想というか。
これらの医学書を読んでいたのでは全く考えつかない方法で常識をうち破ったんだ。
中浜が時計てを見て言った。
携帯電話を取り上げ、大阪の壱岐教授宅の番号をプッシュした。
携帯からコードでホームテレホンに繋ぎ、マイクをオープンにしている。
これで相手の声もマイクを通じて出てくるから、会話の内容は宣子と中浜にも聞き取
れる。
やはり連絡を待ちかまえていたのだろうか、コール一発で出た。
「壱岐ですが」
年輩の弾性の声だ。
「壱岐教授ですか? 広都大の」
「……そうだが、君は?」
警戒した声だ。
「麻理江さんを預かっています」
「今、麻理江の母親から連絡が入ったところだ。 麻理江は無事か? そこにいるの
か?」
僕はまた携帯電話を毛布越しに麻理江の耳に当てた。
「おじいちゃん」
「麻理江か。 無事か。 どうもないか?」
「大丈夫。 何もされてないから」
「そこはどこだ?」
「それは……あの…」
母親の時と違ってだいぶ落ち着いてきている。
けど、これ以上は喋らせられない。
電話機を麻理江から離す。
「麻理江さんには何もしていません」
「目的は何だ? 何が欲しい?」
「率直に言います。 お金ではありません。 話を聞かせて欲しいのです」
「何の話だ?」
「第二次大戦中、広都大薬研でおこなわれていた内容を」
「…………」
「終戦になる少し前に行われた研究成果発表の様子を」
「……何の事だ。 私は、そんな事は……」
声に動揺が出た。
知っている。
「当時の薬研は軍事目的で人間の限界を医学的に越えようとする試みをしていた。
その内容が知りたい」
「……私は、知らん。 関わりのない事だ」
壱岐教授はしらばくれたが、僕はまた電話機を麻理江に近づけた。
中浜がその耳元で思い切り音をさせて手を打った。
すぐ耳元で大きな音がしたものだから麻理江は、
「きゃっ」
と声を上げた。
そして、抱きかかえていた宣子が麻理江の脇をくすぐる。
「いやっ、やめてっ、いや、いやっ」
「や、やめろっ。 麻理江に手を出すなっ。 乱暴はやめてくれっ」
さすがに慌てた声が上がる。
孫可愛やのお爺ちゃん丸出しだ。
「麻理江さんを痛い目に遭わせたくなければ、話してもらいたい。 あなたが当時見
たままの事を」
強めの語気で畳みかけた。
麻理江は声を出さないように抱きかかえられている。
「君は何者だ? どうしてそんな事を知っている?」
「ひと月ほど前、広都大の六道記念館で保存派と取り壊し派の対立討論会がありまし
た。 その場で保存派のひとりが乱入した取り壊し派の学生に向かってグランドピ
アノを持ち上げ、投げつけました」
「…………」
「ご存じですね?」
「……聞いている」
「グランドピアノの重量は二百キロ以上あります。 常識的に考えて人間ひとりの力
で持ち上げられるはずがありません。 その男の力はまさに超人のそれでした。
それだけじゃありません。 その男は僕の目の前で車を、二トンもあるベンツを素
手でひっくり返しました」
「…………」
「その男はつい最近までそんな力は持っていませんでした。 どちらかというと非力
な方でした。 それが、ある日突然、超人的な力を発揮したんです。 本来、その
男の持っている資質以外の外的な要因で得たとしか考えられない怪力を。 僕達は
その男を追いました。 いろんな人達に聞き込みをしました。 そして、広都大医
学部に伝わる超人伝説を知るに至ったのです。 その中にあなたが関与していたと
いう情報が出てきました。 現在生存している当時の薬研の研究員であり、超人的
な力を作り出す可能性のある人物として。 そして、もしかしたら、今なおその研
究を続けていて、その成果を最近になってこの世に出した張本人であるかもしれな
いという事を」
「…………」
「あなたは今もなお、その研究を続けられているのですか?」