医学部のキャンパスで宣子がひとりで立っている。
今日の宣子は少しドレッシーに、少し華やかめにメイクアップし、さながら恋する男を待
奥村は同じ医学部の保存派の数人と学部校舎の方から歩いて来た。
「御堂、どうして判った?」
僕と中浜は校舎のベランダからそれを見下ろしている。
4時をまわっていた。
医学部の授業が終わる頃だ。
宣子はしおらしく俯きかげんで本を、それも詩集なんかを読んでいる。
さりけなく周りを見回しならが。
つ、ときめく乙女のようだった。
もっとも、待っているのは男に違いない。
そして、その男はすぐにやってきた。
昨日のエラメガネもいる。
連中はすぐに宣子に気が付いた。
宣子もそれを見てにこりと小首を傾げ、ゆっくりと奥村に近づいて行った。
奥村はこころなしか緊張ぎみに身を固くしている。
宣子に男としての警戒心を持っているようだ。
宣子は宣子でやっぱりうつむきかげんに、ちらりちらりと上目遣いで奥村を見ながら近づ
いて行く。
こういう態度で女の子に近づいてこられたら男は誰だった緊張するだろう。
宣子はまらりの男達を無視して奥村の前に立つと、さらに恥ずかしそうに頬を赤らめなが
ら、詩集の間にはさんであった封筒を取り出し、そっと奥村に手渡した。
奥村は呆然とそれを受け取り、立ち尽くしている。
まわりの連中もあっけにとられて見ているばかり。
宣子はそのまま何も言わず、さっと身を翻して小走りに奥村から離れて行った。
後に残された奥村は、しばらくその場に立ったままでいたが、まわりの連中に肘でつつか
れ、冷やかされて我に返り、顔を真っ赤にして封筒をそのまま自分のバインダーの中に入
れ、緊張したままらしくカチカチのロボットのような歩き方をしてキャンパスを出て行っ
た。
僕と中浜は声をかみ殺し、腹を抱えて笑い転げた。
越田から電話がかかってきたのは翌々日の夜だった。
もっと早くかかってくるかと思っていたが意外に時間がかかったのは、あちらなりに状況
の把握と対策を考えていたからなのだろう。
「見損なうなよ。 お前とはもう五年のつき合いだぜ。 お前の交友関係や思想的背景な
んてお見通しだ。 ちょっと順序立てて考えたら、どういう風にすればお前と連絡が取
れるかなんてすぐに判るさ。 もっとも、お前と奥村にあくまでもしらを切り通されれ
ばそれまでだったけどな」
「それも考えたよ。 俺がお前に電話するって事は俺が奥村さんと通じている事をばらし
てしまう事だからな」
「臨検とのつながりもな」
「そうだ。 お前の目的が判らない以上、俺達の関係を悟らせるべきじゃないもと思った
けど、お前の行動力にはまいったよ。 いつまでも隠し通せるとも思えなくなったから
な」
ここまで持ってくるのには僕としてもそれなりの苦労はしているのだ。
「御堂、どうしてお前はそんなに探り回っているんだ? 俺を掴まえる為にか?」
「最初に僕を目撃者にしようと引っぱり出したのはお前の方じゃないのか。 その超人性
が昔からある先天的なものじゃなくて、あくまでも最近になって何らかの外的要因で獲
得したものだと証明させる為に」
「………確かにそうだったよ。 お前の事だから理路整然と警察に証言してくれると思っ
たからな。 だけど、今は後悔しているよ。 お前の行動力にはまいった。 東口選手
を襲ったのも、壱岐教授のお孫さんを誘拐したのもお前だろ。 そこまでやるとは思わ
なかったし、まさか俺に直接連絡を取ってくるとも思わなかったよ」
「僕は小さい時、やせてて力が無くて、喧嘩にはいつも負けてた。 そんな子供がいつも
夢に見るのは何か判るか?」
「…………」
「超人願望なんだよ。 どんぐりの背比べなんかじゃなく、卓越した力を持ちたい。 努
力じゃ追いつけない力に対する憧れ。 まさにお前が持つ力だ。 僕以上に資質に乏し
いお前がなんらかの外的要因であの超人性を発揮した。 僕があの力に対して興味を持
たない訳がない」
「どうしたら超人になれるのか教えろという事か?」
「もちろん、それもある。 それと、どうして戦時中にその研究が完成していながら今ま
で隠し通されてきたのか。 それが今どうして世に出てきたのか」
「壱岐教授から聞いたのか?」
「超人伝説のほんの触りだけな。 けど、壱岐教授も超人研究の内容については知らなか
った。 すぐ近くにはいたけど、本質的なところでは部外者だったらしい。 終戦直後
に、その研究を持ち出した軍部の人間がいるらしいって事は言ってたけど。 つまり、
それがお前達のバックなのか?」
「……なんとも言えんな」
「昔の研究者達は全員殺されたし、研究書類も一部隠されて残りは焼かれた。 そうなる
と、今超人となり得るためには旧軍部のつながりか、生き残っている可能性のある当時
に作られた超人とのつながりしか考えられない」
「?……ちょっと待て、御堂。 今なんて言った? 研究者は全員殺された? どういう
事だ? 壱岐教授から何を聞いた?」
「え?」
「当時の研究書類が一部隠されたって、どういう事だ? 終戦直後に持ち出されなかった
書類がどこかに隠されたっていうのか?」
「……書類が隠されたって事を知らなかったところをみると、やっぱり持ち出し軍人との
つながりなんだな、お前は」
「そんな事はどうでもいい。 研究が完成して、その記録書類がどこかにあるって事か?」
「?……完成はしているだろ。 お前がそうだ」
「……いや、そういう意味じゃない。 戦時中に完成していた書類だ」
「よく判らんな。 お前の方がずっとよく知っているんじゃないのか。 当事者なんだろ」
「御堂。 壱岐教授からどんな話しを聞いたんだ? 聞かせてくれ」
?……?……なんだか話がかみ合っていない。
当然越田は戦時中の研究内容も終戦直後の事も、そして、六道記念館に隠された書類の事
も知っているものと思っていた。
臨検そのものが壱岐教授とつながっていると思っていたからだ。
「お前は臨検の連中からそんな事は聞かなかったのか」
「俺は医学部じゃないからな。 壱岐教授とは会った事もない」
「じゃ、奥村達からどんなふうに超人の話を持ち出された?」
「純粋に記念館を守ろうって事だけだ。 その為には超人伝説を復活させる必要があると」
「超人伝説の内容は聞かされなかったのか?」
「そんな事はどうでもよかった。 ただ超人性を見せつけるだけでよかった。 それで記
念館を守れると思った。 今の学長を見ろ。 自分の実績と名前を残す為と、ゼネコン
から貰うリベートの為に、史上に残る名建築を壊そうとしているんだぞ。 それを阻止
出来るなら、伝説の内容なんかどうでも良かったんだ。 しかし、研究者が全員殺され
たっていうのは……聞いてないし、本当なのか?」
「ああ、当時の超人研究のリーダーだった南教授ってのがGHQから研究の秘密を守る為
に口封じをしたんだそうだ。 そして研究書類と研究に携わった軍関係の人間の名前の
入った組織図を六道記念館のどこかに隠した。 その書類は今でも記念館のどこかに眠
っているらしい。 判るか? ここからは僕の想像だけど、取り壊し派は建物を取り壊
しででも、その書類を捜し出そうとしているんじゃないか。 そして保存派はそうはさ
せまいとして抵抗している」
「どうして、その書類をそんな連中が欲しがる? 隠したがる?」
「壱岐教授の話のショッキングなところなんだけど、つまり、当時の薬研ってのは軍属機
関で、旧陸軍から依頼を受けて兵士を超人化させる研究をしていて、もちろん動物とか
モルモツトとかも使っていたけど、直接人体に作用する研究だったものだから、本物の
人間を実験材料にしていたという事だ」
「……材料とは?」
「人体実験だよ。 生体解剖や生体反射、生体実験だ」
「…………」
「その人間は満州から旧関東軍によって送られてきた中国人が数百人。 生きながら実検
材料にされて、殺された」
「…………」
「それで成果は上がった。 しかし、すぐに終戦になってしまって、南教授はGHQの来
る前に非人道的な実験の証拠を消す為に実験材料にされた中国人と研究員を全員殺して
しまい、消却してしまった。 ところが、その研究を指示、命令して満州から実験材料
の人間を運びこんできて、殺させていた軍部の人間は戦後のどさくさに紛れて研究書類
を持ち出し、研究の事なんか知らん顔で戦後を生きながらえている。 そこでだな、仮
定だが、もし、その軍人が現在、日本を動かすほどの大物になっていたら、どうだ。
そして、もし、南教授の隠した書類に自分の名前が書かれていたとしたら」
「…………」
「その大物は必死になって、その書類を始末するか、発見されないままに置いておこうと
するんじゃないか? つまり、それが、お前達保存派の一番奥にいる人間なんじゃない
か? 六道記念館のどこかに眠る、自分の過去の歴史的残虐な行動の記録を示す証拠に
なる書類を世に晒さない為に。 皮肉にもかつて自分が持ち出したもう一部の書類を元
にし、超人を現代に蘇らせて記念館を守らせている」
「……馬鹿な」
「そういう事なんだよ。 建築史に残る名建築を残そうなんて綺麗事じゃないんだよ」
「………本当か?」
「壱岐教授を信じればな。 奥村達もその書類を探してるんじゃないのか? 記念館を見
回っていたぜ」
「…………」
越田は電話の向こうで考え込んでいる。
戦時中の実験内容も政治的背景も何も聞かされていなかったのか。
記念館を守りたいの一言であっさりと話に乗ってしまったかのようでもある。
そんな簡単に自らを実験台にして超人になり、おかげで警察に追われるようになってなん
て、そんな単純な男だったのか?
「越田、僕は壱岐教授から聞きだした事も自分の推理も喋ったぜ。 次はお前が話す番だ」
「……御堂、次の保存派周回が来週ある。 それに来てくれ」
「お前も出るのか?」
「ああ、その前にお前と会って、俺の身体を見せてやろう。 そして話そう」
「電話でははなせないのか?」
「実際に見た方がいいだろう。 それに、お前を信用しない訳じゃないが、俺の方にも確
認したい事があるし」
「……ああ」
「来てくれ、集会に。 その時」
越田は一方的に電話を切った。
越田は真実は何も知らされないまま臨検の連中に体よく踊らされていたのか?
もしかしたら超人薬は生命に危険のある類のものなのかもしれない。
だから、それを知っている臨検の連中は自分達で服用しないで、何も知らない越田を引き
込んで試した。
越田は実験材料だったのかもしれない。
昔の薬研での人体実験のように。