昭和四十九年、秋。
烈迫の気合いが道場内に響きわたり、ふたつの砥澄まされ鍛え抜かれた肉体がぶつ
二人は同じ高校の柔道部で、もう何十回、何百回と乱取りを重ねてきているため、
怒涛の気合いと罵声、畳に投げつけられる振動の交錯するほんの薄壁一枚隔てた所
そんな劣悪な環境の中で竹内と竜崎はまさにお互いを親の仇とばかりに闘志をかき
その日、竜崎は身体の切れが良かった。 いつもなら竹内の怪力に阻まれて飛び込
むろん、美術部側の驚きと衝撃は並み大抵のものではなかった。 いくら普段から
地響きがおさまった後、一瞬の間をおいて美術部員の絶叫ともいえる声が複数で響
竹内と竜崎は舞い上がる埃の中で平然と立って、血相を変えてうろたえる美術部員
その頃にはようやく美術部員達の被害者としての大義名分ヒステリーも治まり、柔
「待てっ、竜崎っ、そいつに触るな!」
<4>
〔マリアの降臨〕
1
かりあった。
身長百九十センチ、体重百キロ、骨太に剛健な筋肉を被った大型の膂腕獣のような
竹内裕治。 百八十センチ、八十キロ、しなやかな鞭のしなりと駿烈な動きを持った
猫科の野生獣のような竜崎龍也。
竹内の右組手に対し竜崎の左組手。 けんか組手だが、無用な組手争いなどはしな
い。 道着の袖、衿など取れなくてもお互い身体に触れさえすれば瞬時に崩し、投げ
にもっていく。
竹内は引き付けての大外刈り、竜崎は左の大内小内からの背負い、釣り込みへの連
絡変化だ。 互いに相手の得意技は知り尽くしている。
竜崎の右手が竹内の左衿を取った。 瞬間、竜崎の身体が体当りのように踏み込み、
左肘で竹内の胸を突く、と同時に左足裏が竹内の左足を刈っていた。 竹内は左後ろ
隅にバランスを崩したが、刈られた足をそのまま後ろに引いた。 体を後ろに崩され
たからといって、慌てて前方にバランスを戻すと、待ってましたとばかりに竜崎に背
負われてしまう。 左後ろに体重を移しながら竹内は竜崎の奥衿をとり、左引き手を
不完全に残しながら吊り手だけではね腰に仕掛けた。 今度は竜崎のバランスが前に
崩れたが、竹内の右はね脚が竜崎の膝上にかかる寸前に、取られていない右袖を大き
く後ろに引き、身体を捻る。 竜崎の体は半身に捻られたまま竹内の跳ね腰に跳ね上
げられ、空を一回転して、足から畳に落ちた。 竹内、竜崎、身体ごと前に畳にのめ
り、道場の羽目にぶつかりかけたが、道場壁際に立っていた部員に押しかえされて、
体を離した。
互いの技や癖は知り尽くしている。 ちょっとやそっとの事でむざむざ相手の技に落
ちる事はない。 それゆえ余計に、お互い、なんとしても相手を畳にひれ伏せさせて
やろうと錬磨しているのだ。
技を知られているからにはまったく新しい技を練り、身に付け、相手にそれを読み
切らせないうちに投げてしまう、という奇襲戦法は竹内、竜崎ともに好む所ではなく、
あくまでも真正面からの正攻法で、しかもお互いに知り尽くした得意技でねじ伏せて
やろうとしている。
頑固というか、唐竹割りの馬鹿というか。 それゆえに試合などでも、初顔には滅
法強いが、いったん相手に得意技を知られ、研究されてしまうと格下を相手にも苦戦
を強いられてしまう。 もう少しうまく立ち回ればとも思うが、顧問の松嶋武雄も二
人の性格からして、へたに奇襲に走らせてせこい勝負に出るよりは正功法で地力を付
けた方が良いという指導理念で、口をへの字にして眉をしかめながらも黙って見てい
る。
二人の実力はインターハイ代表になる力を充分に持っていた。 朝昼晩と合宿で柔
道漬けになっている私立の高校ならいざしらず、公立の、しかも、団体ではいつも一、
二回戦敗退という弱小柔道部の高校からインターハイに出場という事は、この二人が
並み大抵の玉ではない事を物語っていた。
その二人が今汗を流している場所は柔道部の道場ではあるが、ただの道場とは少し
違う。 そこは築後八十年という大正年間に建てられた由緒と伝統のある大阪市立工
芸高校旧講堂の二階なのだ。
御影石と赤レンガ、銅版葺の屋根、その壁には一面にびっしりと蔦がからまってお
り、蔦の間に埋もれるように鉄枠の窓が並んでいるノスタルジーという形容がまさに
あてあまる偉容なゴシック風の建築。 建築的には評価の高いこの旧講堂も、戦後ま
もなく生徒数の増員にともない、大人数を収容出来る新講堂が出来てからは本来の講
堂としての使用はされていず、あろうことか、講堂内を間仕切り壁で仕切り、半分を
柔道部の道場、もう半分をなんと、美術部のデッサン室としてその存在を長らえてい
るのだった。
で美術部員がメジィチやアグリッパの胸像に向かって木炭を動かしているというめち
ゃくちゃな部室配置。 精神を集中してデッサンをしている時に隣から美術とはまっ
たく相い入れない罵声が聞こえてきて、あれではたして崇高な芸術に浸れるのかと首
を傾げたくなるが、美術や武道とはなんたるかをまったく理解出来ていない学校当局
者がこの工芸高校にいる限りどうしようない。
たて、乱取りに取り組んでいる。 二人の乱取りが始まると、他の部員達はけいこを
やめて、畳の周りに立つ。 二人の動きがあまりに壮烈で、道場の端から端まで目一
杯使って動き回るものだから、羽目板が破れてしかたがない。 だからそれを阻止す
るために畳からはね出してきた二人を押し返すために部員達が周囲に立つのだ。
む事の出来ないふところに何度も切り込めた。 もっとも、だからといって必殺の背
負いがすんなりと決まるという訳ではないのだが、流れは押しであった。
何度目かの左大内刈りに入り、それを竹内が右から払い返そうとしたところ、刈り
足をそのまま竹内の左脚にかけ自分の右足を軸に左背負いに入った。 竹内はバラン
スを崩しながらもなんとかこらえようと左脚に力を入れてふんばる。 竹内の下半身
に加重が掛かった為、竜崎はそのまま背負いから背負い巻き込みに移った。 竹内の
ふんばりもここまでだった。 竜崎の左腰を中心に円弧を描きながら竹内の巨体が畳
の端に防波堤として立っていた部員の頭上にうなりとともに落ちていった。 一瞬の
隙を見計らったように自分に向かって落ちて来る竹内をその部員は避けきれず、まと
もに竹内の巨体と巻き込みでその身体に体をあずけている竜崎の体重をもろに受け、
弾き飛ばされてしまった。 よほどその勢いが凄かったのだろう。 弾かれた身体は
もろに道場と美術部との境の間仕切り壁にぶつかり、その衝撃で木軸の壁約一間が、
“ぎやあああ”と悲鳴のような音を立てて美術部側へ大崩れに倒れた。
隣の蛮声や地響きには慣れっこになっているとはいえ、壁際に座ってイーゼルに向か
っていたところに、大音響とともに壁が頭上から倒れてきたのだから、その驚愕たる
や相当なものがあったろう。 這いつくばるように逃げまどい、悲鳴も上げれずひき
つっているばかりだったのだから。
そして、その壁は倒れた拍子にビーナス像を叩き割り、床に叩きつけられた壁の笠
木はその反動で宙に飛び、這いつくばって逃げまどっている美術部員の島崎晶子が
『マリアの降臨』と名付けた講堂の白壁に人型に浮かび上がった染みの喉元にぐさ
りと突き刺さった。
きわたった。 別に怪我をした訳でもないのだから黙っていりゃいいものを、自分の
安全が確認されてから、さあ、と一息おいて、これみよがしに事を荒立てる大悲鳴を
上げる。 悲鳴を上げる事によって自分達に降り掛かった不幸がより大きなものであ
った事をヒステリックにアピールしているのだ。
達とマリア様を見ていた。
「な、な、な、なんですか! ど、ど、ど、……」
美術部部長の谷口和久が尻餅をつきながらわめいている。
「どういう事ですかって言うてんのやろか?」
「さあ?」
竹内と竜崎は血相を変えている美術部員などは相手にせず、これだけ派手に器物破
損をやったら、さぞかし今期の部費から弁償金をとられるやろなと考えていた。
「秋期大会用の新しい道着が……」
竹内が天を仰いだ。
「おまえはどうせ予選落ちやからええやないの。 俺の新しい道着が」
竜崎もぼそりと言う。
「なに? なんでおまえや。 なんで俺が落ちておまえが」
「阿呆、なんでこの壁が壊れたんや。 俺の背負いでおまえが飛ばされたからやろ
が」
「なにをぬかすか、おまえの背負いがへたに崩れて巻き込みなんかやらかすからや
ろが」
「崩れようが巻き込もうが勝ちは勝ちや。 おまえの時代はもう終わったんや」
「なにをぬかす。 おまえの台頭は十年早いわ」
「自分の足元も見れんやつが何を言う」
「おおっ上等やないか。 俺かおまえか、もいっぺん勝負つけたろやないか」
「おおっ」
竹内と竜崎は胸を反らせて向かい合った。
「竹内、竜崎、おまえらは、もう無茶苦茶しよってからに。 こともあろうに美術
部に向かって壁倒すとは、まあ、なんという。 顧問の中西先生になんと言うてお詫
び申し上げればよいか」
柔道部顧問であり、工芸高校教頭の松嶋武雄が世にも情けないという顔で二人の間
に入ってきた。
「教頭、すんまへんな。けど、これは事故というもんで」
竹内はぷいっと竜崎から顔をそむけて言った。
「そうそう、過失を責めたらいけません、好きでこんな事やるやつはいませんのや
から」
竜崎も竹内に背中を向けて言った。
「好きでやられてたまるか」
教頭松嶋は苦虫を噛みつぶしたように言い、とりあえず、柔道部側の一方的な責任
で美術部側に迷惑をかけたのだから、態度だけは神妙に、被害状況に目を配った。
ここで竹内と竜崎だけに相手方との応対をさせておくと、悶着の上にもう一悶着を
起こすのが目に見えているからだ。
道部の暴虐に抗議の口を出し始めてきた。
「ああ、ビーナスが……」
「だいたい、神聖な美術部の隣に野蛮な柔道部があるってのがおかしいのよ」
「そうやわ、教頭先生、なんとかしてください。 こんな恐怖の中ではおちおち芸
術に耽溺していられません」
「そうだ、われわれ美術部はだんこ柔道部の粗暴、下劣、乱雑さに抗議する」
今まで白目を剥いて腰を抜かしていた連中がここぞ積年の恨みとばかりにわめきた
てるが、竹内も竜崎もしらん顔している。 こんな小心者達のゴマメの歯ぎしりみた
いな抗議の相手をしていてもおもしろくもない。 部室が隣同士にあるのはお互い様
だ。 そんな文句は学校側に言え、とばかりにそっぽを向く。
そうこうしているうちに、それまでひきつけを起こしていたように這つくばってい
た島崎晶子が笠木の突き刺さった壁を見て、
「ああ、マリア様が、マリア様が」
と、悲鳴のような声を出した。
彼女自身名付けた『マリアの降臨』の喉元に木片が凶器のように突き刺さっている
のだから、キリスト教徒じゃなくても悲鳴を上げたくなるところだろう。 松嶋も
マリアの御姿を見て顔色を変えている。
竜崎はつかつかと、串差しになったマリア様の前に行き、笠木に手をかけた。
と、松嶋が叫んだが、え? という顔をした時にはもう竜崎は笠木をひっこ抜いてい
た。
案の定、古い壁は教頭松嶋が危虞したとおり、笠木を抜いた拍子にその表層が大き
く落ち、そこに塗りこめられていた中身をさらけ出す事になった。
「なんや、これ?」
「ま、待て、竜崎っ」
「ちょっと、教頭、これ、ひょっとしたら……」
「…………」
「どないしたんや、え?」
竹内が二人の肩越しに壁の穴を覗きこんで、はっ、と息を飲んだ。
「……これは、やっぱり骸骨て言うやつですか、教頭?」
「そやろな、やっぱり……」
数秒の沈黙の後、再び美術部員達の絶叫的な悲鳴が旧講堂中に響きわたった。