〈13〉



 5

 大門警部補達が駆けつけた校長室には、校長と教頭、それに、初めて見る、頭の禿
げた初老の男が一人いた。

 「どうも、わざわざお呼び立ていたしまして」
 山之内校長が立ち上がり、深々と頭を下げた。
 「いや、それより、どこから出た?」
 大門警部補はソファに音を立てて座りながら言う。
 「はい、その前に、こちらにおりますのが、うちの写真科の主任、土田なのですが」
 「土田でございます」
 土田教諭は立ち上がり、後頭部に残っている白い髪が見える程、丸い頭を下げた。
 大門警部補はふんぞり返ったまま、顎だけを引く。
 「あの、この土田は写真科の主任をしておるのですが、実は、さきほど重要な話が
あると申し出てまいりましたので、聞いてみましたところ、大変な事が判りましたも
のでして……」
 「何ですか?大変な事と言うのは?」
 大門警部補は躊躇しながら喋る山之内校長に苛立ち、せかすように聞いた。
 「は、それじゃ、あの、土田先生、説明を」
 「はい、実は、昨日の夕刊を読んだ時点ですぐに報告しなければいけない事だった
のですが……つい、言い出しそびれて……今ごろになってしまいまして」
 土田教諭も校長同様、額に汗を流しながら喋る。
 「かまいません、何ですか?」
 大門警部補、その様子にますます苛立つ。
 「夕刊に載っておりました、コーヒーに混入されていたという薬物、チオシアン化
カリウムですが、あれは写真科で扱っているものでして……」
 「何? 写真科? ここの?」
 「はい」
 「高校の授業であんな猛毒を使うのか?」
 「はい」
 「薬物使用許可は取ってるのか?」
 「は、それはもちろん、学校として取っております」
 「ふん、それで、そんな劇薬をこの高校では何に使うてますんや?」
 「いえ、その、チオシアン化カリウムだけを扱っているのではなくてですね、カラ
ー現像の調剤キットとして扱っておるものなのです」
 「調剤キット? 何です、それは?」
 「アメリカのコダック社が販売していますカラーフィルムの現像液薬剤セットです。
写真科で購入しておりまして、暗室実習で使用するものです。 写真科の実習では、
自分達で写したフィルムは全て自分達で現像、焼付けを行うものですから」
 「D.P.E.には出さずに?」
 「暗室作業がまた楽しいのです。 写真というものは、シャッターを切って終わり
ではなく、シャッターを切ってからが始まりなのです。 自分の撮影したフィルムが
現像、停止、定着というプロセスを経て、実際の映像になっていくのを見るのが写真
の醍醐味といえるでしょう、これは…」
 「判りました」
 大門警部補は調子に乗って喋る土田教諭を制した。 こんなところで写真談議を聞
いていてもしかたがない。
 「で、その調剤キットとやらはどんな物なんです?」
 「はい、ここに説明書があるんですが」
 土田教諭は黄色い印刷をした冊子を手渡した。
 コダック社、E.2用フィルム現像キットと書いてある。 開いてみると、1ペー
ジ目に処理行程とあり、十五項目の行程が書かれてあった。
 「その、次のページの第一現像液のところを読んでみて下さい」
 「ええと、ここか」
 箇条書きにしてある部分だった。

 第一現像液、E.2
  一、メトール 五グラム
  二、無水亜硫酸ナトリウム 二十五グラム
  三、ハイドロキノン 五グラム
  四、無水炭酸ナトリウム 二十五グラム
  五、臭化カリウム 二グラム
  六、0,1%沃化カリウム溶液 十�
  七、チオシアン化カリウム 二グラム
  八、0,2%六ニトロベンズイミダゾール硝酸塩 五�
  九、水を加えて総量 千�


 「これやな。 何かよう判らんけど、どれもこれも危なそうな薬品名ばっかりやな
いか」
 「は、しかし、一応市販されているものでして……」
 「誰でも買えるのか?」
 「はい、営業目的か、我々のような教材としての使用許可さえ取れば」
 「うーむ、問題やな、これは。 劇薬が野放しになっとるやないか」
 「はい、申し訳ありません」
 土田教諭はキットの販売を自分の事のように頭を下げた。
 「よっしゃ、そしたらとりあえず、そのチオシアン化カリとやらを証拠物として領
置させてもらおか」
 「それが……無いのです」
 「何ぃ、無い?」
 大門警部補は思わず顔を上げて、土田教諭を睨んだ。
 「はい、最初に言いそびれまして、と言ったのはその事でして」
 「どういう事です?」
 大門警部補の顔が苛立ちで赤くなってきた。
 「実は、つい五日ほど前の事ですが、実習でそのキットを使う予定がありまして、
備品庫からキットの箱を出して開けたところ……あの、中に入っている各種薬剤の中
から、チオシアン化カリウムだけが無くなっていたのです」
 「五日前。 事件の前々日やないか。で、無くなってるのが判ってどないした?」
 「は、あの、それが……おかしいなと思いながらも、こんな大惨事になるとは夢に
も思いませんでしたので……」
 「そのまま黙ってた」
 「は、その通りです。 真に申し訳ない次第でございまして……」
 土田教諭は消え入りそうな程肩身を狭くして、首を垂れた。
 「何という事を。 もし、その時に徹底的に捜し出してたら、こんな事件は起こら
んかったかもしれんのですぞ」
 「…………」
 土田教諭は言葉も無い。
 「あんたの怠慢で人間一人の命が失われたも同然ですぞ。 それでも教師ですか。
  教育者としての管理責任を問いたいですな」
 大門警部補は口答えも出来ないほど消沈している土田教諭に、たたみかけるように
強い言葉を浴びせた。 いじめっ子が、自分に反抗してこないと判る相手には益々図
に乗っていじめてしまうという姿によく似ている。
 「あの、刑事さん」
 山之内校長がおずおずと口を出した。
 「何ですか!」
 大門警部補の言葉尻が勢いに乗って強くなっている。
 「あの、真に勝手な話ではございますが、この件につきましては、なんとか、ご内
密にしていただくという訳にはいきませんでしょうか? いえ、けっして捜査の上で
隠すのではなく、マスコミに対してですね、やはり、派手な報道などされますと、土
田君の立場もありますし……」
 校長は汗を拭き拭き言ったが、自分の立場とは言わない。
 「校長先生、これは殺人事件ですぞ。 その事件のきっかけになった盗難をどない
して揉み消せっちゅうんですか」
 「いえ、あの、だからマスコミに対してだけ……」
 「警察は事実を公表する義務があります。 へたな隠しだてなどして、もし、後で
判った時はどうするんですか。 それこそ、より一層派手に書き立てられますぞ。 
我々まで吊し上げられるやないですか。 そんな事より、事実は事実として素直に認
めて、一刻も早く犯人を逮捕する事を考えようやないですか。 なあ、校長先生」
 大門警部補はがっくりと肩を落とした校長と土田教諭を目を細めて眺めた。
 「で、キットはどこに置いてあったんですかな?」
 「は、写真科の備品庫です」
 土田教諭はうつむいたまま答えた。
 「その場所を見せてもらいましょうか」
 大門警部補はすっくと立ち上がった。

 写真科の校舎は旧校舎からグラウンドを挟んだ反対側にあった。 四階建ての校舎
で、一階が印刷実習室。二階が写真科職員室と備品庫、機械室。 三階が調剤実習室
と暗室が三室。 四階が撮影スタジオと小暗室になっていた。

 ちなみに公立高校での写真科というのは日本中でこの大阪工芸高校にただひとつあ
るだけという非常にめずらしい学科だ。 ひとつしかないというのはそれだけ貴重な
学科であると言えるが、反対に必要無いからひとつしかないのだとも言える。 なん
ともいいかげんな学科ではある。
 その写真科の校舎の二階の備品庫に大門警部補は足を踏み入れた。 一歩部屋に入
ると、現像液や氷酢酸の酸臭が鼻をつき、大門警部補は顔をしかめた。
 「こちらです」
 土田教諭は前室の壁面棚の置くにあるスチールロッカーの前に行き、ポケットから
出した鍵で扉を開けた。 中にはカメラ、レンズ、ストロボ等の撮影機材と、フィル
ム、印画紙、現像用薬品等の消費資材がぎっしりと詰め込まれている。 その中から
ボール紙製の黄色い箱を取り出し、テーブルの上に置いた。 アメリカの代表的なフ
ィルムメーカー、イーストマンコダック社のマークとロゴタイプが上箱に大きくプリ
ントされている。
 「これがキットですか」
 大門警部補は危険な爆発物でも見るような目で黄色い箱を左右から眺めた。
 「はい、市販されているものでして……」
 土田教諭は市販を強調する。
 うやうやしく黄色い上蓋を取った。 皆一斉に覗き込む。 中には大小いくつかの
小箱と小瓶、小バットにスポイト等が入っていた。
 「これがメトール、これがハイドロキノン……」
 土田教諭が小箱をひとつひとつ手に取って名前をあげるが、大門警部補には何の事
やらさっぱり判らない。 そのうち、一本の小さな瓶を取り出し、テーブルの上に置
いた。
 「これは0,1%沃化カリウム溶液なんですが、チオシアン化カリウムはこれと同
じ形の瓶に入っていたのでして……」
 「ここには無いという訳ですな」
 大門警部補は土田教諭をひと睨みしてからしてから、その小瓶を覗き込んだ。
 茶色のスクリューキャップ式の小瓶で、白いラベルが貼ってあり、英文で薬品名が
書かれている。 そして、ラベルの中央には赤色でドクロマークがプリントされてあ
った。
 「何や、このマークは。 こんなもん、最初から付いとんのかいな」
 「はい、これはコダック社が最初から付けているものでして、劇薬ですし、間違っ
て口にでも入れたりしないようにという事で付けているのだと思いますが」
 「ふん、一目で毒薬やというのが判りますな。 毒薬を手に入れたい者にとっては
なんとも親切な表示やないか」
 「は、はあ、それはその通りですが、まさか……」
 「そのまさかが起こったのですぞ。 全く、アメ公の余計な表示といい、学校の管
理体制といい、犯罪を起こして下さいといわんばかりやないか」
 大門警部補は赤い顔をしてまくし立てる。
 「で、チオシアン化カリウムの瓶にもこのドクロマークが付いとったんですか?」
 小瓶を親指と人差指でつまみ上げ、中味を透かして見ながら言った。
 「はい、やはり同じものが付いてます」
 「うーん、すると、小沢真智子殺害の目的を持っていた犯人が、このキットを見て、
ここに毒薬がある事を知り、これは使えると思って部室に忍び込み、箱を開ければ一
目で判るドクロマークの瓶を盗んだ、という訳やな」
 「警部、ドクロマークの瓶はこれとチオシアン化カリウムの二本だけだったのでし
ょうか?」
 得居刑事が言った。
 「うむ? 土田先生、どないです?」
 「は、はい、二本だけです」
 「そしたら、犯人はどうして二本とも持って行かなかったんでしょう? 一本だけ
で充分だと思ったんでしょうか。 もし、チオシアン化カリウムが期待する程には効
かなかったとしたら、どうするつもりだったんでしょう?」
 「ふん? それは……そやな、さほど効かんでもええと思ったか、つまり、殺すつ
もりは無く、脅すか、病院送りにする程度でええという事で一本で充分と思っうたか。
 反対に、犯人はチオシアン化カリウムの毒性をよく知っていて、一本で充分致死量
があると確信したからか、やろ」
 「本谷真知子の場合は?」
 「前者やろ」
 「そうしたら、殺意は無かった事になりますが」
 「う、うん?……いや、殺すつもりやったんや。 もし失敗して死ねへんかっても、
まあええわという気持ちでおったんやろ。 本谷の殺意は認定出来るで」
 大門警部補の本谷真知子を犯人と断定したかのような言い方を聞いていた山之内校
長は青ざめた。
 「あの、それはどういう事でしょう? 本谷が何かしたのでしょうか?」
 松嶋教頭がすかさず聞いた。
 「いや、まだはっきりと断定した訳ではありません。 これからさらに尋問して確
認していかなければいけませんのでな。 まだ誰にも口外しないように願いますぞ」
 自校の生徒が容疑に挙げられていると聞いて山之内校長はめまいがした。 自分の
責任問題はもうすでに覚悟しているとはいうものの、せめて犯人は校外からの侵入者
であって欲しかったという思いまでもが叩き潰されてしまい、その場に崩れ落ちた。
 大門警部補はそんな校長の事など意にも介さず、得居刑事相手に勝手に喋っている。
 「しかし、この瓶の中の液体をコーヒーカップの縁にうまい具合いになすり付ける
事が出来たやろか?」
 「そうですね。 液体ですから、縁に垂らしただけでも中に流れ込んでしまいます。
そうなると、最初に一口飲んだ時にはもう効いてなかったらいけません。 縁に付け
て時間差を狙ったというトリックは難しいのと違いますか」
 「うーむ。 土田先生、この瓶の中身は水みたいにさらりとした液体ですが、チオ
シアン化カリウムはやはり同じようなものですか? それとも、もっとどろりとして
るとか?」
 蜂蜜のように粘性のある液体なら、カップの縁に付着させる事も可能だと思って聞
いてみた。
 「いえ、あの、チオシアン化カリウムは液体ではなく、粉状薬剤なのですが」
 「粉!」
 同じ瓶だと言うから、てっきり中身も同じ液体だと思っていた。
 「得居、粉やったら余計に縁に付着させやすいやないか」
 「そうです。 縁をちょっと湿らしておけば、簡単にくっつきますよ」
 「よっしゃ、これでトリック解明やな。 後は盗まれた瓶が出てきたら解決や」
 大門警部補は勝ち誇ったように手を握りしめ、ガッツポーズを取った。
 「ところで、このキットはいつもこのロッカーに入ってるんですか?」
 得居刑事がロッカーを指さして聞いた。
 「はい、薬品類はいつもこの備品庫に入れております」
 「先ほど鍵を開けてられましたが、いつも鍵は掛けているんですか?」
 「はい、いつも掛けております」
 「その鍵は誰が持ってるんです?」
 「誰がという訳ではないんですが、いつもは用務員室の鍵庫に置いてありまして、
始業の時にそこに取りに行って、終業の時に帰しに行くのです」
 「備品庫の鍵も?」
 「そうです。 写真科の教員の誰かがいない時に鍵が開いているという事はありま
せん」
 土田教諭はいかにも自分達には落度は無かったとばかりに言った。
 「映研部の部室の鍵と同じやな」
 大門警部補はそんな土田教諭の態度はいっさい無視し、腕を組んで言った。
 「はい、わが校の各部屋の鍵は全てそのようにしております」
 山之内校長が言い切った。
 「そしたら、盗まれた時、鍵は掛かっとったんですか、掛かってなかったんですか
?」
 「はい、それが……チオシアン化カリウムが無くなっているのに気が付いたのが五
日前でして……、実際にはいつ盗難に合ったのかがよく判らないんです。 なにしろ、
扉が破られたとか、誰かが侵入したりとかの形跡が全く無いものでして」
 「ええ加減なもんですな。 で、最後に見たのはいつですか?」
 「ええと、このキットを購入したのが十日前です。 その時には全薬品を確認して
おります」
 「すると、購入してから盗難に気が付くまでの五日の間に誰かが抜き取って行った
という事ですな」
 「はい」
 大門警部補は腕組みをして天井を見上げた。
 「その間、先生がいない時は備品庫の鍵も掛かっていた。 開いている時は必ず誰
かが居た、という事ですな?」
 「そうです」
 土田教諭が答える。
 「映研部の事件現場と同じですね。 密室状態で」
 得居刑事が思い浮かべる様にして言った。
 「阿呆、何が密室や。 そんなもん、誰かが合鍵作って持っとったらなんぼでも中
に入れるやないか。 もっと簡単に考えたら写真科の職員か生徒の中に犯人がおるか、
共犯者がおったら、いつでも堂々と抜き取れるやないか」
 「あ、そうですね」
 得居刑事は手を打ったが、その横で写真科の職員か生徒が犯人かという言葉を聞い
て、今度は土田教諭がめまいを起こして倒れそうになった。
 「よっしゃ、写真科の中で最近本谷真知子と親しかった者がおれへんかったかを確
認しよう」
 「はっ」
 「土田先生、このキットは預からせてもらいますぞ」
 「はい、どうぞ」
 山之内校長と土田教諭は揃って頭を下げた。
 得居刑事が手袋をはめて小瓶を箱に戻し、蓋をした。
 「さて、電話を貸してもらえますかな」
 「はい、職員室でどうぞ」
 大門警部補が先頭になって備品庫を出た。


職員室に戻り、大門警部補は電話機を取り上げてから、
 「校長先生。 本谷真知子の電話番号は何番ですかな?」
 と、言った。
 「え、はい、少々お待ちください」
 山之内校長は慌てて名簿を調べる。
   「ええと、ありました。これです」
 「ふんふん」
 大門警部補は鼻で返事しながらダイヤルを回す。
 しばらく受話器を耳に当てていたが、ちっ、と舌打ちして、勢いよく本機に叩きつ
けた。
 「誰も出てこんぞ。 留守かいな」
 「本谷真知子の家は両親が共働きでして、家に戻るのはいつも遅いようなのですが」
 松嶋教頭が言った。
 「それにしても、本人が帰っとらへんやないか。 葬式の後、あのまま梅本とどこ
かへしけ込んどるのと違うか」
 「直接行ってみますか」
 「そうやな。 校長先生、住所を教えてもらえますかな」
 「はい、ええと、住所は……」
 「待って下さい」
 また松嶋教頭が声をかけた。
 大門警部補、これ以上無いというくらい露骨に顔をしかめる。
 「何ですか、まったく」
 「本谷真知子の家で何をなさるつもりですか?」
 「何をて、取調べに決っとるがな」
 「取調べ? 何の容疑です?」
 「殺人容疑に決っとろうが!」
 大門警部補が顔を赤黒くして怒鳴った。
 「証拠はあるんですか?」
 「!……事件前後の状況と動機が証拠や」
 「それは状況証拠と推測でしょう。 確たる証拠物件はあるんですか?」
 「……状況は揃うとる。 本人を前にして問いただせば、自白が証拠となる」
 「自白を強要する訳ですか」
 「強要とは何や! 事実を明白にしていくのやないか!」
 大門警部補、顔色がどす黒くなり、目が吊り上がってきた。
 「何度も言うようですが、彼女達の年頃は、外見はもう立派な大人のようでも、中
身はまだまだ不安定な子供です。 ただでさえ、友人が死んで動揺しているというの
に、そんな時に、あなた方のように尋問に手慣れた人達が寄ってたかって問いつめて
ごらんなさい。 自分でも意識していない、思いもよらない事を感情的に口走ったり、
誘導尋問などに簡単に乗せられたりしてしまうんです」
 「我々が誘導尋問をして口を割らせるとでも言うのか!」
 「あなた方が捜査して得た状況を否定はしません。 が、その状況が確かなものだ
と信じるにたるところまでこぎつけられたのなら、ここで慌てず、もう一歩、冷静な
目で捜査をして、証拠を挙げてからでしょう」
 「そんな悠長な事してる間に逃げられたら、どないするんや」
 「彼女が犯人とは思えません、ましてや逃げるなどとは。 それより、過去の判例
を見て下さい。 初期捜査のまずさと事実誤認、自白の強要で成立した冤罪事件で人
生の大半を奪われてしまった人が何人もいるでしょう。 後に法廷で無罪になったと
ころで、失われた信用と年月は戻ってきません。 彼女が犯人であるかもしれないと
いうのは推測でしょう。 ここはなんとか自白に頼らず、証拠を先に掴んでからにし
て下さい。 尋問はそれからです」
 「あんたに捜査の手順を指図されるいわれはない! 黙っとってもらお!!」
 大門警部補は目までが充血してきた。 額の血管が浮き出し、身体全体が震えてい
る。
 「どうしても現段階で尋問をなさると言うのですか」
 松嶋教頭は机から身を乗り出して言った。
 「きさまに捜査の指図は受けんと言うとろが!」
 「判りました。 それでは、もし、今あなた方が本谷真知子を尋問して。 自白調
書を取られたとしても、私は現在の状況を弁護士を通じて上申書として、事件担当検
事に報告します。 あなた方がいくら調書としてまとめても、検事がそれを認めなけ
れば法廷での証拠物件にはならない」
 「!!………」
 大門警部補の目がぐるりと回り、頬の肉が痙攣を起こしている。
 「ぎ、ぎざま……」
 もし、大門警部補の身分が警察官でなければ、とっくに松嶋教頭の首を締め上げて
いるところだ。
 「尋問や取調べでなければ良い訳ですね。 現在の疑わしい状況を明白にする為の
事情聴取であれば」
  得居刑事が、今にも掴みかからんばかりに震えている大門警部補を抑えるように、
一歩出て言った。
 「密室状態になる警察の取調べ室での尋問ではなく、我々も立会いの公開の席での
事情聴取なら良いと思いますが」
 「それはあなた方に都合が良すぎるんじゃありませんか。 署内がいかんというの
はともかく、聴取に同席というのは」
 「どうしてです?」
 「我々の正当な調べに対し、横から口を入れられたり、容疑者の自供に制限を加え
られたりされると困ると言うのです」
 「邪魔をするつもりはありません。 制限などもしません。 我々だって早く真相
が知りたいのです。 ただ、犯人逮捕を急ぐあまり、容疑のある人間を将来にわたっ
て傷つけるような調べ方はやめて欲しいのです。 本谷を犯人と決めつけてしまい、
その口を割らせる事だけに捜査が集中してしまったら、他に真犯人がいた場合、その
犯人を取り逃がしてしまうかもしれないでしょう。 いや、もう取り逃がしているか
もしれない。 本谷は犯人などではありません。 だから、現時点では容疑者を犯人
と特定し取調べ方はしないで欲しいのです。 生徒の将来を守るのは教師としての義
務ですから」
松嶋教頭は一気に言ったが、得居刑事は首を捻った。
 「教頭先生は本谷真知子が犯人ではないと確信しているような口ぶりですね。何故
ですか?」
 「何故といわれても困りますが、自分の生徒を信用してやるのも教師の務めでしょ
う」
 松嶋教頭、得居刑事の反撃に少しつまった、
 「もし、本谷真知子が真犯人だったらどうするんですか。 手加減した分、真相解
明が遅れるんですよ」
 「だから、証拠固めに力を注いで欲しいと言ってるじゃありませんか。 急いで尋
問してところで証拠が無ければ公判維持は出来ないんですから。 それどころか、起
訴すら出来ない」
 「…………」
 得居刑事は言葉に詰まった。 何か言い返そうとするのだが、良い思案がうかんで
こない。
 「よっしゃ、かまへん。 あんたらがおろうがおろまいが、真実はひとつや。 事
情聴取で結構やろ。 わしが落したる」
 いくぶん落ち着きを取り戻しはしたものの、まだ赤い顔をして、頭から湯気を立て
ている大門警部補が言った。
 「そのかわり、場所はうちの署内や。 校長先生、今すぐ本谷真知子の家に行き、
呼び出して署まで同行願えますかな」
 「現段階では出頭もあくまで任意です。 本人が行くのは嫌だと言えば出頭させる
事は出来ませんよ」
 また松嶋教頭が言った。
 「本人が行くと言うたらええのやろ、行くと言うたら!」
 「任意ですから」
 「とりあえず、行ってみようじゃないですか」
 得居刑事がとりなし、一同は学校を出て、本谷真知子の家に行った。 だが、本谷
真知子は帰っておらず、家は留守だった。 校長が両親の職場に電話をしたところ、
両親共に仕事で帰りは遅くなるとの事だった。 本谷真知子が帰ってくるまで家の前
で待つと言い張る大門警部補と、今日はもう遅いし、未成年者の夜の調べは非常識で
あるとする松嶋教頭が、しばらく論争していたが、そうこうするうちに、本谷真知子
が帰ってきた。 事情聴取に同行してもらお、と切り出した大門警部補に驚きはした
ものの、あくまで任意の事情聴取なのだから、君自身警察まで行く気がなければ無理
に行く事はない、と言う松嶋教頭の言葉にうなずき、夜も遅いですから明日にして下
さい、と言った本谷真知子の一言で、あっさりと、その日の警察同行は流れてしまっ
た。
 大門警部補の歯ぎしりは言うまでもない。




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憂想堂
E-mail: yousoudo@fspg.jp