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旧講堂の演台にセットが組まれ、リハーサルが始まった。
演台の上に緞帳が何重にも垂らされ、その間で二人の悲劇を演じるシーンがあった。
それなのに、いない。
どういう事だ?
消えた? 馬鹿な!
竜崎は頭を振った。
「もう、どのくらいになります?」
もうほとんどセリフが入っているので、部員達は台本を持たずに演台に上がり、各
シーン毎にリハーサルを進行させている。 川勝がこれみよがしなメガホンを持ち、
カメラの横に立って、進行を取り仕切っていた。
竹田女史は演題の下から、要所要所に脚色を加えていく。 殺人事件があり、一時
は部活が危ぶまれていただけに、再開となってからは部員達も内田女史も前以上に熱
を入れてリハーサルに打ち込むようになった。
ただ、森真智子が一人、どこか熱の入らない様子だった。
竜崎は柔道部の練習のあいまにリハーサルを覗きに来ている。
「刻緒、どうして、あなたは美術科なの? どうして図案科とは相居れないの?
それが出来ないなら、せめて私に愛の誓いをして。 そうしてくれさえしたら、私は
退学してもかまわないわ」
「僕はいつだって君を愛しているさ、でも、僕には美術科を捨てる事は出来ない」
「捨てなくてもいいの。 でも、誓って」
「僕には君を愛している事しか判らない」
「だから、聞いて。 その愛の証を見せて。 皆に認めてもらえる方法を捜すのよ。
私達には出来る筈よ」
「見せるとも、これが僕らの証」
演題の上で涙する絵里衣に下にいる刻緒が駆け登り、愛を告白する。
「もっと、一刻も早く愛する人の所へ駆けて行こうとする、焦りもかんじられるく
らいの気持ちで駆け登って!」
竹田女史がカン高い声を怒鳴る。
「だめ、ここで見つかったら」
もっと悲しげに、と声が飛ぶ。
「緞帳の中さ、見つかる筈がない」
刻緒の梅本が緞帳の中に絵里衣の本谷真知子を追いかけ、本谷はさらにステージの
上に上がる。
「……私、あなたしか信じられない」
「絵里衣」
刻緒がステージの縁に足をかけ、手すり越しに絵里衣を引き寄せ、抱きしめた。
演技ではないキスを交わす。
竹田女史が目をつりあげて立ち上がり、行き過ぎですっ、と声を出そうとした時、
二人の乗っていたステージが、メリッ、と音を立てて搖れた。 梅本はすぐバランス
を立て直し、本谷真知子はキャッ、と声を上げて梅本にしがみつく。
竜崎は一瞬、第二の犯行か、と思ったが、ステージは搖れただけで落ちる事は無か
った。
「大丈夫か?」
竜崎が駆け上がり、川勝が遅れて、へっぴり腰で上がってきた。
「大丈夫。 足場板が一枚割れたみたいだな」
梅本は足元を見て答え、しがみついたままの本谷真知子をかばいながら下りてきた。
「おい、セットはもっと頑丈に作らなあかんでえ」
「いや、練習中で良かった。 補強箇所確認出来た」
「何言うてんねん」
部員達は口々に文句を言いながら舞台に上がり、ステージを点検しだした。 竜崎が
部員達と入れ替わりにステージを下りた時、おっとり刀で竹内が袖部屋から出てきた。
「おう、何やってんねん。 何かあったんか?」
「どこいってるんや」
「化粧直しや」
「引っ込んでろ」
梅本と本谷真知子は舞台を下りた。 本谷真知子は梅本の腕にしがみついたままだ。
頬が紅くなり、眼が潤んでいる。
「本谷さん、大丈夫ですか?」
竹田女史が声をかけてきた。
「はい、何ともありません。 ちょっと驚いただけ」
「怪我が無くて良かったです。 セット作りにはもっと気を入れてかからないとだ
めですね」
竹田女史、腰に手をあてて、舞台上の部員達を睨んだ。
「竹田先生、もっと注意して見ていただかないと」
竹田女史は自分の亭主を叱りつけた。
「あ、ああ、でも、これは仮設置だったから」
嫁に叱られて、なさけそうに言い訳をする。
「同じ事です。 もし事故にでもなればどうするんですか。 あんな事件のあった
後だというのに、映研部の立場が無くなってしまいますよ」
「そ、そうだな。 ちょっと見てくる」
竹田教諭は逃げるようにして舞台に上がって行った。
「あの、私、ちょっと顔を直してきます」
本谷真知子は目尻を人差指の背で抑えて、舞台右の袖部屋に入って行った。 その
後ろ姿を見送っていた梅本に、
「梅本君、どうですか? 撮影にはもう慣れましたか?」
と、竹田女史が声をかけてきた。
「ええ、まあ」
「いろいろ揉め事続きですけど、今回の作品はきっといいものに仕上がりますよ」
「はあ」
「梅本君、あなたは意外に演技力もしっかりしているし、何というか、独特の華み
たいなものもあるし、絶対に見る人の眼をひいて、喝采を浴びると思いますよ」
「はあ、そうですか」
「頑張って下さいね。 惜しむらくはあなたが一年生の時から演劇部に入ってくれ
なかった事です。 三年間通じて演劇に打ち込んでいれば、あなたは高校演劇界では
相当に名の売れた存在になっていたでしょうに、残念です」
梅本は、とんでもない、と思った。 この口やかましい女史がいるからこそ、今ま
でどんな勧誘にも屈せずに逃げ回っていたのだから。
「あなたは高校での活動は今回が最初で最後になるでしょうけど、これだけに終わ
らず、大学でも演劇をやって、もっと才能を伸ばすべきです。 もし、あなたにその
気があるなら、私はいくらでも力を貸しますよ」
「はあ」
大学で演劇をやるつもりは無い。 中学校から六年間ずっとテニスをやってきたの
だから、大学でもテニスをするつもりだ。 もっとも、今やっている映画撮影が意外
におもしろいので、大学でも、今回のようなワンポイント出演があれば、やってもい
いなという気にはなっていた。
「それから、やはり何といっても、高校性なのですから、確かにくちづけを交わす
シーンはありますが、過去、ふりだけをして、本当にやった人はいません。 現代の
高校生として、判りますが、もう少し考えて下さい」
やはり、この年代の人にはあのキスシーンは刺激が強いのかいなと思った。 梅本
自身、自分がキスをしているところを他人に見せて喜ぶ趣味は無いが、本谷真知子の
ペースに合わせていると、自然にそうなってしまうのだ。 釣合という事なら、本谷
真知子は及第だったし、見られたところで、たかが映画だ、という気があったので、
意識して拒否するつもりはなかった。 それに、三人マチコの一人なら、公認のカッ
プルと言われてもかまわない、という思いもあった。
「そうですね、気をつけます」
大急ぎでセットが修復されていた。
竹田教諭の指示で、セットの位置が少し変えられたり、補強が入れられたりしてい
る。
「本谷さん、遅いですね」
そういえば、袖部屋に入ってだいぶ経つ。
「見てきます」
梅本は竹田女史の側を離れる良い口実が出来たとばかりに、いそいそと袖部屋に向
かった。
舞台脇の階段の奥に扉があり、その向こうが舞台袖に通じる袖部屋になっている。
梅本は扉を開けて入ったが、本谷真知子の姿は見えない。
部屋の壁には姿見が貼られ、本来は支度部屋とか化粧室として使われる部屋なのだ
が、今は緞帳やパネル等の資材置場になっている。 顔を直しているのなら、その姿
見の前にいる筈なのだが。 部屋の中を見渡したが、どこにもいない。
積み上げてあるパネルの陰も、吊り下げてある緞帳の間も覗いて見たがいなかった。
正面には出てこず、そのまま舞台に上がったのかと思い、舞台溜りの脇の階段を上
がり、緞帳の垂れている溜りに立った。
溜りの陰にもいない。
そのまま舞台に出てしまった。
「本谷さん、来た?」
舞台上でずっと修理をしていた部員達に聞いてみたけど、誰も見ないと言う。
「いや、見ないけど」
「梅本君、一緒にいたのと違うの?」
「溜りの方からは誰も来なかったよ」
「そう、おかしいな」
梅本は首を傾げて、もう一度溜りの方に戻った。
緞帳の陰、パネルの後など、念入りに調べ直して、最初に入った扉から出た。
「竹田先生。 本谷さん出て来ましたか?」
「いいえ、いないんですか?」
竹田女史はぽかんとした顔をしている。
「おかしいな。 舞台にも上がってないし」
「?」
「確かにあの扉から入っていきましたよね、先生」
「どういう事でしょう」
竹田女史は小首を傾げて右袖部屋に入った。
梅本がその場で見ていると、しばらくして、竹田女史が舞台上手から出てきた。
梅本と同じように、舞台上の部員に本谷真知子を見なかったかと聞いている。
「ちょっと、皆さん。 誰か本谷さんを見ませんでしたか?」
竹田女史は舞台で大声を上げた。
部員達は手を止めて内田女史を見るが、誰も見ていないと答えた。
竹田女史の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「皆さん! 作業を止めて、本谷さんを捜して下さい! 本谷さんが見あたりませ
ん! 皆で手分けして捜して下さい!」
大声で部員達に声をかけ、自らも舞台上手に入った。
「本谷がおらんようになったて?」
「どこかで貧血でも起こして倒れてるんやないのか?」
「いなくなったて、そんな? 何処へも行くとこないやないか」
部員達も一斉に舞台周辺を捜しだした。
異変に気がついた竜崎も右袖部屋に駆けて入った。
「竹田先生、本谷がいなくなったんですか?」
その時、松嶋が異変に気がついたように、柔道部の方から来て、うろたえている竹
田女史に声をかけた。
「え、ええ、急に見えなくなって……」
「見えなくなった?」
「ええ、一人でこの部屋に入って行ったんですけど、出てこないんです」
「出てこない? 出入口はここ以外には?」
竜崎も思わず聞いてしまった。
「ほら、舞台袖に上がる階段があって、舞台には出れます」
「舞台には出なかったんですか?」
「誰も見た者はいないようです」
「他には?」
「ありませんっ」
竜崎がしつこく突っ込んだので竹田女史は金切り声を上げた。
「とにかく、捜すぞ、竜崎」
松嶋と竜崎は袖部屋の中を部員達と一緒に捜しまわった。
「竹内、ほんまに見いへんかったんか?」
竜崎は舞台下に立っていた竹内を捕まえて聞いた。
「おお、袖部屋に入るのんを見たきりや、おまえかて、その入口のところから見て
たやろが」
「ああ、けど、その後はおまえの方が近くにいてたやないか。 舞台脇の控えにお
ったんやろ。 すぐ後ろが袖部屋や」
「近くにおったかて他人の化粧直しを覗く趣味は無いわ、なあ、国領」
竹内はいつの間にか竜崎の後にいた国領香代子に向かって言った。
「え? ええ、はい」
国領香代子は本当に心配そうな顔をしていて、竹内の冗談に取り合えない。 竜崎
もこの場は馬鹿やってる訳にはいかない。 さらに捜してまわったが、本谷真知子の
姿は見えなかった。
狭い袖部屋にはどこにも隠れるところはない。 部屋に入った正面には窓があるが、
ここは二階だ。 それも普通の二階ではなく、一階に天井の高い雨天集会所のある講
堂の二階だ。 並の建物の二階よりはるかに高い。
竜崎は念の為、窓から顔を出して見たが、窓の外には出てもどこにも下りれる所も
無ければ、伝える物も無い。 下は植え込みになっていて、植樹以外何も見えない。
部屋の入口と舞台袖への階段しか出て行く所は無い。
「教頭、どういう事ですやろ?」
竜崎はいつになく厳しい表情で状況を見ている松嶋に言った。
「竹田先生、この入口からは出て行かなかったんですね?」
松嶋はもう一度内田女史に聞いた。
「ええ、舞台正面に私と梅本君がずっと立って見ていましたから。 ここから出て
行ったのなら、私達の気が付かない筈はありません。 ねえ、梅本君」
竹田女史は梅本に相づちを求めたが、梅本は、
「……?」
首を捻るだけだった。
「舞台の方へは?」
「舞台上には部員達が何人もいました。 誰も知らないと言ってます」
つまり、何処からも出ていない。
出ていないという事は、他に出る所が無いのだから、当然まだ部屋の中にいなけれ
ばいけない。
「おーい、みんな、舞台周辺だけやなしに、講堂の外や周囲も捜してみてくれ」
松嶋はきつねにつままれたような顔をしている部員達に指示を出した。
「案外トイレにでも入ってるんと違うか」
「私、トイレ見てくる」
部員達は半分が旧講堂から外へ捜しに出て行き、半分が舞台周辺を捜した。 点検
口から、天井裏に登ったり、床板の剥がれた所から中を覗き込んだりしたが、本谷真
知子の姿は見つからなかった。
「え? 何がですか? 教頭先生」
「時間です。 本谷がいなくなってから」
「もう、三十分になります」
「警察を呼びましょう、竹田先生」
「ああ、どうしましょう。 また警察だなんて」
竹田女史は顔を被って、その場にしゃがみ込んでしまった。