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翌日、竜崎は滋賀県彦根にいた。
旧街道からさらに一筋山手に入り込んだところに、土塀が数十間もの長さが続いてい
土塀づたいに歩いて行くと、やがて質素ではあるが勇壮な木造りの屋敷門に出た。
梅本は顔立ちも雰囲気も感覚も現代的以上、未来的とも言える容姿をしていて、常に
門脇の木戸横に付いている、似つかわしくないインターフォンを押す。 来意を告げ、
門の中は鬱蒼とおい繁った木々の緑葉で覆われている。 飛び石が並び、それを踏み
飛び石を伝って林を抜けると、やっと玄関に着いた。 来客を門の前で十分も待たす
「どうぞ、おかけなさい」
「さて、ご用件を伺いましょうかな」
吉兵衛老人にしても、孫の吉成が渦中にあるのだから、そ知らぬ顔は出来ない。
蔵の中いっぱいに積み上げられた長持ちや木箱の山。 そのひとつひとつに整理用
「これが昭和二十四年の閲覧者名簿です」
「松嶋武雄」
る。 塀越しに漆喰造りの倉がいくつか並んでいるのが見え、その合間に立派な枝振り
の楠が隆々と緑葉をおい繁らせていた。
表札には達筆な筆書きで「梅本」と書かれている。
竜崎はしばし立ち止まり、呆然と門構えに見入ってしまった。
どこからどう眺めて見ても、あの梅本吉成のイメージとは結びつかない。
狐につままれたような気がする。
身の回りに新鮮さを撒き散らしているのだが、この目の前の門からは今にも髷を結い、
裃を着た武士が出てきても不思議はないたたずまいをしている。
双方につながりがあるなどとは微塵にも思えない。 あまりにも風格があり立派な門
構えだった。 つきたくはないが、思わずため息が出てしまう。
お待ち下さいと言われてから、なんと十分程も待たされてから、木戸が開いた。 これ
は程のいい門前払いかと思い、何度インターフォンを押し直してやろうかと思っていた
矢先だった。
「や、お待たせしましたな。 当主の梅本吉兵衛です」
長身痩躯白髪の老人が出てきた。
梅本から、吉兵衛というのは梅本家の継ぎ名であり、自分の爺さんであると聞いてい
たので、すぐに、この爺さんがその人であると判った。
「大阪の工芸高校から来ました、吉成君の友人の竜崎です」
竜崎も礼を尽くして名を名乗った。
こういう時には武道をかじった者は好感を与えるものらしい。 竜崎の武道家然とし
た立居振舞いに吉兵衛老人は目を細めて
「いや、まあまあ、よう来られましたな。 ささ、どうぞ中へお入りなさい」
と時代がかった物言いで竜崎を門の中へ招き入れた。
しめて行くと、やがてその先に家屋が見えた。 枝ぶりの良い木々が密に立ち並んでい
る為、前庭は昼間なのに薄暗く、陰気くさい。 識者はこれを幽玄とか侘寂とか言うの
だろうが、竜崎には無秩序におい繁った工芸高校の中庭と同じ印象しか感じない。 こ
れで中央に噴水でもあればそのものだ。
はかも母屋から隣接する倉にかけて、その壁にはびっしりと蔦が絡まっていた。
これこそまるで工芸高校の旧校舎にそっくりではないか。
訳だ。
「今、丁度、家内が手伝いの者と一緒に外出しとりましてな。 私一人ですのでなん
のおかまいも出来ませんが、さあ、お入りなさい」
よほど古い建物なのだろうが、柱や廊下などは艶やかな飴茶色に磨き込まれていて、
古びた印象は受けない。 壁もすすけた色になってはいるが、ひび割れひとつ無い。
造りそのものもよく出来ているのだろうけど、常日頃の手入れもよほど行き届いている
のだろう。
アルミサッシやガラスなど全くない、木と和紙の建具だけの縁廊を通って客間に案内
された。
この客間にも驚かされた。 部屋そのものは和室なのだが、置いてある家具は全て洋
の物なのだ。 それも、作られて百年以上は間違いなく経っていると思われる、西欧風
の物ばかりである。 畳の上には眩のするような模様のペルシャ絨毯が敷きつめてあり、
その上にヒッコリー材の脚に豪奢な刺繍の入った背と座を持ったソファやスツール、ア
ンティックオークを丹念に削り出したレリーフの入ったテーブル、やはりオーク材で作
られた重厚な書棚とサイドボード等が整然と置かれてある。 ここに古い地球儀や水時
計、デカンタワインでもあれば、まるで時代劇に出てくる堺あたりの新し物好きな豪商
の部屋のようだ。 チンを膝の上に乗せ、オランダ人と商談している恰幅の良い腹黒そ
うな商人の姿が目に浮かぶ。
吉兵衛老人はもうかなりの年齢であるのだろうに背筋はぴんと立ち、立居振舞いもし
っかりしている。 かつての筋金入りの武士とはかくあったのではと思わせてくれる。
顔立ちも彫りが深く実に端正に出来ている。 梅本家の血筋なのだろう。
「随分と古い屋敷でしょう」
竜崎があっけにとられて室内を眺めていたので吉兵衛老人が納得顔で言った。
「は、驚きました」
「慶安年間に立てられたものだから、ざっと三百年になりますか」
「三百年」
「現存する木造建築の中ではかなり古い方になりますかな」
「はあ」
古い方と言われても、竜崎は比較する建物を知らないだけに、生返事しか出来ない。
「まあ、古いと言ってもたかが三百年ですからな。 法隆寺をごらんなさい、築後千
年以上経ってます。 それに比べたら、まだ三分の一にもなってませんからな、まだま
だこれからです」
「はー」
感心して思わず見上げた天井には電灯が無い。 昔の形をそのまま残しているのか。
歴史文化尊重は判るが、実生活ではさぞかし不便だろうにと竜崎はいらぬ心配をする。
「はい、伺いたいのは、これの事なんですが」
竜崎は松嶋の机からくすねてきた本を差し出した。
「梅本吉兵衛嫡子覚書……。 これを、どこで?」
吉兵衛老人は驚いて竜崎の顔を見た。
「やっぱり、この家の本ですか?」
感触ありと見て、竜崎も身を乗りだした。
「……もう二十五年前になりますか。 盗難にあいましてな」
「盗難? 二十五年前?」
「ええ、昭和二十四年の秋に書庫の整理をした時に紛失に気がついたのです」
「この本だけ?」
「何故かこれ一冊だけが無くなっておったので、どこかに紛れ込んでしまったかと
何度も捜しましたが見つからなんだ。 当家には毎年夏休みになると学者や学生達が
たんと来て文庫を閲覧しますからな、その時、不届きな者がおって持ち帰ったらしい」
「閲覧記録なんかはつけてなかったんですか?」
「それはちゃんとつけておりました。 が、なにぶん二十三年秋の書庫の整理の時
から二十五年秋までの間にじつにたんとの人間が来ておりますのでな、その中の誰か
一人を捜し出す事など出来ませんで、そのままになってしもうとったのです。 で、
これはどこで?」
吉兵衛老人は失せ物が出てきた喜びよりも、まず出所を追求したいとばかりに言っ
た。
「これは、工芸高校の連続殺人に関係してるかもしれない人物が持っていました」
「犯人か?」
「……判りません。 けど関係しているのは確かだと思います」
「この本にも関係があるかと思っておるのかな?」
「それも判りません。 ただ、事件に梅本吉成が絡んでいるように思えます。 も
ちろん梅本自身が自ら参加しているとは思えませんが、何かに巻き込まれているよう
に思えます。 そこへ、この本です。 何かあるんやないかと思えてなりません。
だから今日伺った訳なんですが」
「昭和二十四年の閲覧者名簿を見せろと」
「はい」
当時の閲覧者名簿を見れば、もしかして松嶋の名前が見つかるかもしれない。
「君の知っている名前が出てくるかもしれんという訳か」
「はい」
「…………」
吉兵衛老人はしばらく腕を組んで考えていたが、ん、と意を決したように、
「……よろしいでしょう。 見てみましょう」
と言った。
その上、二十五年も前に盗難にあった本が事件関係者のところから出てきたのだから、
これはなんとか調べてやろうという気持ちにもなる。
「こちらへ」
吉兵衛老人に案内され、一旦、母屋を出て、中庭の蔵まで歩いた。 ここが書庫に
なっているらしい。 吉兵衛老人は南京錠を開け、蔵の鉄扉を開く。 中は薄暗かっ
たが、明り取りの窓を開けると随分明るくなった。
の番号札がつけられている。 本は裸のままでは出ていない。 よく整理されている。
見る人が見れば、よだれの出るほどに貴重な歴史資料の宝庫なんだろうが、竜崎に
は、そんな学問的な興味はない。 あまりの圧倒的な古い木箱の威容になにやら重苦
しいものを感じてしまうのみだった。
吉兵衛老人はそんな倉の中の入口側にある木棚から、一冊の本を出した。 それも
古い本ではあるが、何百年も経ったような古さではない。 まだ現代のうちと言える
程の古さだ。
吉兵衛老人の差し出した本を開く。 中には閲覧者の名前と住所、職業がひとりひ
とり書かれている。 さすがに二十五年も前のものらしく、達筆な筆書きのものが多
い。
竜崎は最初からひとりひとりの名前を丁寧に見ていった。 明治期以前の古書は読
めないが、この程度ならなんとか読める。
年間に百人程度がこの梅本家を訪れている。 ほどなく、目的の名前は見つかった。
もしかして偽名でも使われていたら、と危具していたが、あの実直な性格は当時か
ら備わっていたらしい。