「見つかりましたか?」
竜崎は国領香代子が襲われた時の様子を話した。 そして、梅本家の古書を見つけ
「……なるほど。 しかし、それはいったい、どういう……」
竜崎などは井伊家でフルネームを知っているのは直弼だけだ。 開国と攘夷の立て
「え?」
事件という言葉が出て、竜崎ははっと身を乗り出す。
「当時、井伊家は直孝様でしてな、その井伊家の家老職に、新田親兵衛という者が
恋に盲目となった女は恐ろしい。 竜崎は三人マチコを見ているだけに余計にそう
「幽閉されてから後、気持ちも落ち着かれ、これで丸く治まったかと思った矢先に、
竜崎は背筋に粟立ちを覚えた。 恋に狂った女は恐ろしい。
いや、それとも、全く狂っていなかったのかもしれない。 どうあがいても成らぬ
「こおは再び座敷牢に閉じ込められ、井伊様は事のもみ消しに奔走された。 藩の
吉兵衛老人の最後の言葉には、おかげで梅本家の現在の名跡があるのだと言わんば
吉兵衛老人はやはり入口脇の木棚に置いてあったぶ厚い目録帳を開き、数字を確認
「……新田 こお」
「え? ……これは……」
森真智子だ。
眼鏡は変装用だろう。
しかし、森にはアリバイがある……いや、竹田の証言とは食い違っていた。
「騙された……」
「どうかしましたかな」
「ん、いや、待てよ」
森真智子はもしかしたら、先に新田家を訪ね、そこで偶然にこおの話を知った。
吉兵衛老人が竜崎の手元を覗き込むようにして言った。
「うちの教頭です」
「ほう、……大阪、工藝高等学校生とありますな」
「じつは、殺された二人の他にもう一人襲われた生徒がいまして、どうやら、それ
を襲ったのが、この教頭かと」
「何? 教頭が生徒を襲ったと?」
「はっきりと見た訳ではないのですが」
たいきさつも。
「あの教頭の性格からして、意味なく女生徒を襲うとも考えられません。 なんら
かの訳があると思います。 だから、こうして、ここに何かのヒントがあるかと思っ
てお邪魔した訳なんですが」
「……うーむ。 ちょっと待ってくださいよ。 工藝高等学校生……。 じつは吉
成の叔父が、つまり、吉成の父親の弟ですな、それがこの当時工藝高校生でした」
「梅本の叔父が? 松嶋と同期でですか?」
「そうそう、思い出しました。 確か、この松嶋という学生は吉栄、吉成の叔父で
すな、と同期という事でここに訪れてきたのです。 うん、思い出した」
吉兵衛老人は自分の記憶緑を確認するようにして何度もうなずいて言った。
「二十五年も前の事をよく憶えてますね」
竜崎は感心して言ったが、
「いや、これには訳があるのです」
と吉兵衛老人は訳あり顔で言った。
「じつは、私がこの松嶋という学生に印象を持ったのは、吉栄の友人でという事も
ありますが、それよりも調べていた内容なんですな」
「と言いますと」
竜崎は思わず身を乗りだした。
「何と言いますか、普通、当家を訪ねて来る学生達は、数ある書物の中から、まず
文化に関する物から閲覧していくんですな。 絵巻とか掛軸とか。 初めから歴史史
実を追求するのは、よほど学究の進んだ学者やその助手として研究している学生の場
合です。 でなければ、一札物とか一紙物とかはまず解読出来ませんな」
それはそう思う。 竜崎程度の知識では松嶋からくすねた古文書も読めない。
「せいぜい当家代々の家系図を眺めるくらいが関の山です。 ところが、その松嶋
という学生の場合は、いきなり最初から、ある年代を集中して調べだしたのです」
「年代?」
「慶安年間です」
「と言うと、さっき」
「そうです。 この屋敷が建てられた時代ですな」
「それはどういう事です?」
「まあ、この屋敷の事は偶然なのでしょう。 松嶋君は慶安年間における当家の当
主、家系、役帳や覚書等を調べておったようです」
「家系?」
「家系を調べる人は沢山います。 だが、その場合は年代を遡っていくとか、順を
追っていくとかです。 ある特定の年代に集中するなんて事は、無い事は無いですが、
珍しいですな」
「無い事は無い、とは?」
「例えば、当家は代々井伊様にお仕えしておったのですが、その関係で井伊直弼様、
桜田門外の変で亡くなられた大老ですな、直弼様の時代を集中して調べられる方は多
いですな」
役者。 歴史の教科書に出て来るから知っているだけというくらいのものだ。
「で、私も最初は松嶋君も直弼様の安政、万延のあたりを調べておるのかと思い、
覗き込んで見ると、これが違うんですな。 先ほども言いましたが、調べているのは
慶安年間です。 この時代の井伊家は直孝様の代でしてな。 直弼様に比べると知名
度も低いようですが、この方もなかなかの名老中でした。 そもそも、慶安四年には
由比正雪の乱が起こっております。 その乱を未然に見抜き、平定したのが直孝様で
してな」
「じゃ、松嶋は由比正雪の乱を調べていたんですか?」
「いや、それも違いますのじゃ。 史実を調べているのではなくて、当時の当家の
家系を調べておった。 系図とか名寄帳とか」
「井伊家やなくて?」
「当家も由緒ある家柄でしてな。 権現様の頃よりずっと井伊様にお仕えしており
ます。 高校の教科書には残念ながら名を挙げられる事はありませんが、史実を事細
かに繙けば再三名の出る家柄です。 そもそも……」
「あ、あの、それは良いんですが、それじゃ、慶安年間に限って言えば、梅本家で
はどういう事があったんですか」
この手の歴史家には専門分野を喋らせると、勝手にどこまでも講釈を広げてしまい
かねない。 竜崎は歴史の講義を聞きに来たのではないのだから、横道にはそらせた
くない。
「ふむ、それですな。 確かに、お膝元では由比正雪の乱が起こったりして騒々し
かったようですが、その当時、当主梅本吉兵衛は国元におりましたから」
「吉兵衛?」
竜崎は梅本家の継ぎ名については吉成から聞いていたのだが、吉兵衛老人は、気を
きかして、
「はっはっ、私も吉兵衛です。 当梅本家におきまして吉兵衛というのは代々の嫡
男の継ぎ名でしてな。 当主が死ぬと、その嫡男が新たに吉兵衛を名乗る事になって
おります。 私が死ねば吉成の父親が継ぎますし、つぎには吉成が継ぐ事になります」
「いまは何代目ですか?」
「十四代です」
「慶安期の吉兵衛は?」
「四代目ですな」
「松嶋は四代目を調べていたんですか?」
「どうも、そうらしい」
「……?……」
竜崎には何が何だか判らない。 これが事件とつながっているとも思えない。 松
嶋が梅本家を調べていたのはたんなる偶然の一致なのだろうか。
「それで、四代目吉兵衛というのはどういう人物だったんですか?」
「それが、この四代目吉兵衛というのが、ちょっとした物語にでもなりそうな事件
に巻き込まれた人でしてな」
「三代目吉兵衛が早くに亡くなった為、成益、これは四代目の幼名ですな、成益は
年若くして四代目を襲名いたしました。 周囲の補佐も良かったのでしょうが、吉兵
衛は勤めをよく果たし、井伊様にもよくお目をかけられておったようです。 この吉
兵衛は明晰であったのみならず、大変な美貌の持ち主だったと伝えられております」
やはり梅本の家系は美貌のそれであるらしい。
おりました。 新田親兵衛には三人の娘がおりまして、末の娘をこおと言いました。
大変に美しい娘であったそうです。 そのこおに四代目吉兵衛は見初められましてな、
まあ一時は深い中にもなったそうなんですが、家老新田親兵衛は、今で言う政略結婚
というやつで、井伊家の血縁へと香を嫁がせようとしておった。 どうあがいても、
片や家老職、片や一藩士では、その願いも聞き届けられようもなく、吉兵衛は泣く泣
くこおへの想いを断ち切り、勧められるままに同彦根藩士、藤多士衛門の娘、彩と結
婚し、一子をもうけました。 これが五代目吉兵衛の忠利です。 そこで一件落着と
思いきや、おさまらなかったのがこおでした。 もともと気性の激しい娘であったら
しい上、わがまま放題に育てられたものですから、想いが積もり積もって逆上し、周
りの者達に当り散らし、相当な乱暴狼籍を働き、ついには座敷牢に幽閉されてしまっ
たのです」
思う。 こおは現代で言うところのヒステリー状態になっていたのだろう。 あるい
は、もっと進んで、重症のノイローゼか精神分裂の一歩手前くらいにまで行ったのか
もしれない。
吉兵衛が嫁をもらい、子まで作ったという話がこおの耳に入ったからいけない。 精
神のたがが完全に飛んでしまったのです。 どうやって破ったのか、あるいは手引き
した者がいたのか、こおは座敷牢から抜け出してしまい、髪ふり乱して吉兵衛の所ま
で駆けつけ、懐刀を振りまわして嫁の彩の首をかき切って殺してしまいました。 さ
らに、生まれたばかりの忠利をも殺害しようとしましたが、乳母が抱きかかえて一目
散に逃げだした為、事なきを得ました。 しかし、吉兵衛は逃げ遅れてしまい、背中
から一突き。 まあ、女の執念に殺されてしまったという事ですな。 報せを聞いた
新田家の者が駆けつけた時には、こおは当家の奥座敷に吉兵衛と彩の二人の死体を並
べて、呆けた顔をしながら吉兵衛の顔を切り刻んでおったそうです」
こおもそこまで恋に狂ったのか。
恋なら、胸の痛みに耐えてあきらめるしか無いが、あきらめる事による苦しみと無く
してしまう喪失感とならどちらがましかを天秤にかけて、少しでも楽になれる方を冷
静な目で選んだのだとしたら、狂人よりも恐ろしい。
家老職の娘がかような猟奇事件をおこしたなどと、お膝元に知れるとえらい事ですか
らな。 吉兵衛は彩と共に病死として届けられ、からくも助かった忠利を五代目吉兵
衛として立て、井伊家の重臣として取り立てるという約束をして、口を閉ざさせた。
梅本家としては災難ではありましたが、まあ、おかげで家禄は上がり、地位も得たの
ですから、お家全体として見れば、いちがいに悲劇であったとも言えませんなあ」
かりの感慨がこもっているように思えた。
「松嶋はそれを調べていたんですか」
「さあ、それはどうか。 系図は見ていたようだが」
「……で、もしかして、その話は、この本に書かれているんでは?」
「……書かれてますな。 五代吉兵衛の項に記述されておる筈ですが、さらに詳し
くは四代目、五代目に仕えた家臣、大塚惟足の覚書に残されています」
「その覚書は盗難にはあっていないんですか?」
「無事です。 なんならお見せしましょうか」
「お願いします」
してから、木棚の奥に入って行った。 梯子を使い、上段から木箱を下ろし、竜崎の
前にうやうやしく置いた。
木箱を開くと中には縮緬の布が掛けられており、その下に意外な程完全な形の片綴
本が出てきた。
「三十四冊あります。 こお狂乱のくだりは……このへんでしょうか」
吉兵衛老人は二冊出して手渡してくれたが、竜崎には開いてみても全く読めなかっ
た。
「うーん、読めませんね」
「はっはっ、少し勉強すれば読めますて」
「松嶋はこれも読んでいたんでしょうか?」
「……読んでいたように思うが」
「うーん……」
「ん? そういえば……」
「は? 何か?」
吉兵衛老人が何かを思い出したような顔をしたので、竜崎は耳立てた。
「いや、昔の事ではのうて、つい最近、その本を閲覧しとった者がおりましてな」
「え? この本をですか?」
竜崎は手に持っていた大塚惟足覚書を指した。
「ああ、この夏に、女学生が一人で来て、閲覧していったのですが、その娘がそれ
を見ておった。 さっきも言いましたように、学生がいきなりある年代の者を閲覧す
るのは珍しいものですからな、だから覚えておるのですが……、しかし、あの娘は…
…」
「もしかして偽学生?」
「ん? どうしてそれを……。 ああ、吉成に聞きましたか」
「ええ、そうなんですが、 あ、あのっ、その偽学生の書いた名簿を見せてもらえ
ませんか」
「お、おお、ちょっと待って」
もしかしたら、ここで事件の核心に迫れるかもしれない。 竜崎の胸は高鳴った。
吉兵衛老人は一番新しい閲覧者名簿を持ってきて開いた。
「これに……、確か夏休みだったから、このへんかと……ん? ……これは……」
閲覧者名簿の中の署名を追っていた吉兵衛老人の指が止まった。 が、その目は、
はっ、と見開かれた。
竜崎も驚きの声を出した。 つい今しがた、吉兵衛老人が慶安年間に起こった猟奇
事件を聞かせてくれたところだったのだが、その事件の主人公の名前がよもやこんな
所に出てこようとは。
「……気いつかんかった。 いや、しかし、そんな馬鹿な」
吉兵衛老人も驚嘆の表情をしている。
「その偽女学生ですが、どんな感じの女でした?」
竜崎は名簿を手にしたまま立ち尽くしている吉兵衛老人に聞いた。 二十五年も前
の閲覧者の事でも覚えている老人の事だから、今年の夏の事なら昨日のように覚えて
いるだろう。
「背は女性にしてはちょっと高い方でしたかな。 眼鏡をかけておりましてな」
「眼鏡」
竜崎は頭の中で眼鏡をかけている人間を思い浮かべたが、事件関係者の中にはいな
い。
「髪はどんなでした?」
「長かったと憶えとります。 それに、かなりの美人と見ましたが」
「美人。 ……利発そうで、ちょっと落ち着いた感じ、でしたか?」
「そう、ですな。 物腰の落ち着いたところはありましたな」
どうして森が?
森真智子が犯人?
はなから、竹田の方を嘘だと決めてかかっていたが……もしかしたら……。
森真智子の言葉はあまりに自然だった。 だから疑う事すらしなかったが、よく考
えてみると、森は演劇部ではないか。 嘘をまったくの真実らしく表現するのはお手
のものではなかったか。
「あ、いえ。 あの、その新田こおですが、写真を見れば判りますか?」
「さあ、どうでしょう。 その時は、その女学生の読んでおった本の方に気を取ら
れておりましたからなあ」
竜崎なら、女の顔は一度見れば忘れないのだが、もう枯れてしまった爺さんに若い
女の顔を注意して見ていろというのも無理な話か。
「新田こおはこの本を読めていたんでしょうか」
「さあ、どうでしょう。 その辺は見ておったように思いますが」
「その時、こおの話の解説はされましたか?」
「いや、してないが」
この夏、ここにやってきた新田こおは最初からこの事件の年代を調べていたという。
その名前からしてこおの猟奇事件を調べていたのは間違いのないところだろう。
と言う事は、森真智子はここに来る以前からこおの事件の事を知っていたという事
になる。 どうしてそれを知った?
「こおの話は梅本家だけに伝わる話ですか?」
「そうですな」
「梅本家の人なら誰でも知っている?」
「いや、そんなには知らんじゃろう。 家臣の覚書など読もうという酔狂は私くらいの
ものですからな」
「ここによく研究に来られる大学の先生方も?」
「そうですな、知らんでしょう、たぶん」
と言う事は、やはり二十五年前の松嶋か。 いや、しかし、それにしても松嶋にし
たところで、どうしてこおの話を知ったのだろう? どこかに出所がなければならな
いのだが。
「は?」
「そもそもこおは新田家の娘じゃからな。 いくらもみ消しを計ったとはいえ、新田家
にもあるいはこんな覚書のひとつやふたつは残っているかもしれんな」
「新田家は今でも残っているんですか?」
「ああ、やはり当家と方を並べるほどの旧家として残っております。 あそこにも
蔵書は数多く残されておりますからな、もしかして……」
そして、興味を持ち、さらに詳しくその話を知る為に梅本家を訪ねて来た。
こおの話は読みようによってはせつない悲恋の物語だ。
女の子が酔ってもおかしくはない話だし、遠い昔の話であるだけに歴史的なロマン
も感じたのだろう。 きっと、彼女はその話に陶酔してしまったのだ。 夢見る乙女
がさまよう現実とうつつの狭間というやつに飲まれた。 吉成を四代目吉兵衛に、そ
して自分を香に見立てたのだ。 そして、恋想う心をこおの狂気とオーバーラップさ
せてしまった。
竜崎は覚書を握りしめたまま思い切り立ち上がり、叫んだ。
「ご老人! 新田家は何処にあるんです!」