〈32〉



              [毒蛇]

  1

 「待って、まだ行かないで、あれは月明りよ、朝じゃないわ」
 「ああ、本当にそうならどんなに嬉しいだろう。 でも、ほら、鳥の声が」
 「聞こえないわ。 風の音がそう聞こえているだけなのよ」
 「僕もそう思いたい……けど」
 「思って……」
 「……絵里衣」
 薄暗い旧校舎中央の時計塔の中、屋根裏部屋のような採光窓の下で、梅本は機械支持
柱に背をもたせかけ、その胸に森真智子の柔らかな身体を抱きしめていた。
 髪を撫で、シャツの裾から手を入れて弾むような乳房を揉みしだく。 小さな乳首に
梅本の指がかかるたびに森真智子はかすかに声を立てた。 その唇に梅本の唇が重なり、
声を殺す。 合間に入る映画のセリフが二人の情欲をより一層激しいものへとかき立て
ていた。
 「だめよ、やっぱり、もう朝だわ。 逃げて、もう、あの人達が来る頃よ。 だから、
その前に」
 「絵里衣、僕はもうここで殺されてもかまわない」
 「だめよ、あなたとは、ずっと離れない。 だから、今は逃げて」
 「絵里衣」
 梅本はきつく森真智子を抱きしめた。 森真智子もすがりつき、梅本の首筋に唇をつ
ける。
 「……だめよ……もう……お願い」
 「うん……行こうか」
 「今のはセリフよ」
 「ああ、そうだね。 でも、もう遅いよ」
 梅本は腕時計を見て言った。
 「何時?」
 「六時少し前」
 「まだ皆いるね」
 「先に出るよ」
 「……うん」
 この時計塔は旧校舎のちょうど中央部分、L字型の角の屋根上にある。 校舎が三階
建てだから、ここは四階という事になる。 ただし、廊下に面した一般の階段からは上
がれない。 時計塔のすぐ下が生徒会室になっていて、その部屋にある階段室から上に
上がれるようになっているのだ。 階段室には扉がついていて、隠し部屋のようになっ
ている為、生徒の中でも、この階段があるのを知らない者が多くいる。
 現在、時計は止まったままになっているので、ほとんど時計塔に上る用が無いからと、
どこの学校にでも大概ひとつやふたつはある恐怖の伝説めいたもの、かってこの学校が
まだ旧制中学だった頃に、この時計塔の中で生徒同士のリンチ事件があり、何人も殺さ
れたとか、受験ノイローゼの生徒が首を吊ったとか、そして、その亡霊が夜な夜な出る
とかで、気持ち悪がって上がる者がいないのとで、階段の存在すら知らない者が多いと
いう訳なのだ。
 だが、梅本は一年生の時に生徒会の役員をやっていたという事もあって、この階段は
知っていたし、恐怖の伝説なんかハナから信じないタチだったので、休み時間などに煙
草を吸いたくなった時など秘かにやってきては利用していたのだった。
 最近では、生徒会活動の無い時に、生徒会役員時代に作っておいた合鍵を使って、こ
こに入り、時計塔に女の子を連れて上がり、もっぱら逢引に利用している。
 梅本は時計塔機械室に森真智子を残したまま、ひとりで狭い階段を下りた。 扉の前
に立ち、生徒会室に人の気配の無いのを確認してから扉を開け、部屋に出る。 時計塔
を利用する時には、いつもこうして用心をするようにしている。 梅本は特定の女の子
との付き合いを他人に見られるのは嫌いだったからだ。
 「大丈夫」
 階段上の森真智子に声をかけてから、部屋の扉の前まて来て、わずかに扉を開けて、
外の様子を伺った。

 その時。

 時計塔の方でガタリッと音がして、
 「キャーッ」
 と森真智子の悲鳴が上がった。
 驚いた梅本は慌てて階段入口まで戻り、上を見た。 すると、階段上から、森真智子
が逆さまに転がり落ちてきた。 慌てて下で受け止めようとしたが、抱き止めた途端、
勢いで梅本も一緒に倒れ、したたかに腰を打ってしまった。 激痛が走ったが、それで
も起き上がり、梅本の胸の上に倒れ込んでいる森真智子を見てぎょっとした。
 その背中には、何か鋭い刃物ででも切られたような跡が三十センチにもわたってつい
ており、そこからおびただしい血が流れ出していたからだ。
 「も、森! どうした? しっかり!」
 思わず肩をゆすったが、そのたびに血が流れ出すのを見て、手を離した。
 「……切られたの……誰…か……上に、いる」
 「え? 何だって?」
 「……うしろから、誰か……出て、きた」
 「誰か? まさか、あそこには僕達しかいなかった」
 「いたの……」
 森真智子は斬られたショックと階段から落ちたダメージで失神寸前だった。 声が弱
々しい。
 梅本は瞬時に、小沢真智子、本谷真知子を殺し国領香代子を襲った犯人が上にいる、
と思い、森真智子をその場に置いて、階段を駆け上った。 腰の痛みなどどこかに吹き
飛んでしまったし、犯人が待ちかまえていて、いきなり襲いかかってきたらどうするか、
などとも考えもしなかった。
 狭い階段を上り切り、薄暗い機械室を見渡した。 だが、ほんの三メートル四方程の
機械室の中には時計作動機械とそれを支える支持柱が立っているだけで何の姿も見えな
かった。
 出入口は階段だけ、窓はあるけど、閉まっている。
 この部屋からまだ誰も出て行っていない。 犯人はまだこの部屋にいなければならな
い。
 それなのに、いない。
 狭い部屋だから隠れる場所も無い。
 それなのに、いない!
 梅本は後ずさるようにして階段を降り、下で倒れている森真智子のそばに寄った。
 「森、森、しっかり、誰もいなかったぞ。 どういう事だ? ……森!」
 森真智子は顔を真っ青にして苦しんでいた。 背中の傷の痛みだけではないらしい。
 「……うめ……もと…く…ん」
 「森! しっかり、誰か呼んでくる」
 「……おん……」
 「えっ? 何?」
 「……おん……」
 「何? ま、待て、すぐに救急車呼ぶから」
 梅本はその場に森真智子を横にして、生徒会室を飛び出した。
 廊下には誰もいない。
 一階の職員室まで走って行き居残りの教師達を突き飛ばして電話機を取り、一一九
番を押した。
 何事だとわめき立てる教師達を無理矢理引っ張って生徒会室に戻った。
 森真智子はさきほど以上に状態が悪くなっていて、呼吸するのも苦しそうだった。
 「森! どうした!」
 「しっかりしろ!」
 教師達は口々に叫んで、森真智子の上体を抱き起こす。
 「……うしろ……から……」
 「えっ? 何だ?」
 「喋るな、もうすぐ救急車が来る」
 一人の教師が森真智子を抱き上げて、一階まで駆け降りた。
 ちょうどその時、校門前に救急車が到着し、森真智子は車の中に運び込まれた。
 校門前に今だにしつこく張っていた記者やカメラマン達は狂喜してシャッターを切
りまくる。
 救急車が走り去った後、梅本はひどい不安感に襲われながらしばらくの間、立ち尽
くしていた。


 背中を斬られてから約一時間後、森真智子は死亡した。
 死因は背中の切傷から体内に入った毒物によるショック死だった。
 大門警部補と成田刑事が飛んで来て、状況を見るなり大門警部補は梅本の胸ぐらを
掴み、阿倍野署まで引っ張って行った。

 「おまえしかおらへんやないか!」
 梅本は取調べ室に放り込まれ、いきなり犯人扱いで尋問された。
 「冗談じゃないよ! 森は確かに時計塔の中で斬られたんだ。 後ろから斬られた
って言ってんだから!」
 「嘘つけ! あの狭い時計塔の中でおまえら二人以外の人間がどこに隠れてられる
んや。 ええか、事実は明白や。 ひとつの部屋に二人しか人間はおらんかった。
そのうちの一人が斬られた。 ほな、やったんは誰や? そんなもん幼稚園の子供で
も判るわい」
 「何べん言わすんですか。 あの部屋にはもう一人いたんだ、絶対に!」
 「阿呆! おまえ、最初は誰もおらへんかったて言うてたやないか。 それが、い
きなり誰かが降ってわいて、森を切りつけてまた消えたんか。 おちょくるのもええ
かげんにせえ! あの部屋にはおまえら二人しかおらんかったんや、初めから終わり
まで!」
 「僕らがどこかで見過ごしてたんです、きっと」
 「どこで見過ごすんや、あの狭い部屋のどこで」
 「だから、どこかに見落としたところがあるんです、ある筈なんだ」
 「判った、もうええ。 今、おまえが何をどない言うて取り繕うても、凶器が出て
きたらそれまでや」
 「凶器?」
 「何を使うたんや?」
 「僕はそんな物持ってませんよ」
 「何とでも言え。 あの部屋から職員室までと、その周辺をしらみつぶしにしたら
じきに出てくるわい。 その時になって吠え面かくな」

 大門警部補は目を細めて残忍そうに笑った。 ついに犯人を捕まえた。 しかも、
あのいまいましい梅本だった。 大門警部補にとってこんな嬉しい事はない。 笑い
もこみ上げてこようというものだ。
 成田刑事は取調べ室の後ろの壁に腕組してもたれかかっている。 口を挟まずに何
かを考えながら二人のやりとりを聞いていた。
 「だいたいやな、小沢の時も本谷の時も、わしはおまえが妖しいと睨んどったんや。
いや、おまえが犯人やったら何もかもつじつまが合うんや。 小沢の時のコーヒーカ
ップ、あの時、おまえは小沢の隣に座ってた。 かねてから恋愛上の邪魔になってき
ていた小沢を殺害しようとチャンスを狙うとったおまえは旧講堂に行く為に皆が部室
を出て行きかけた時か戻ってきた時、どさくさにまぎれてカップに毒を放り込んだ。
隣におったんやったら簡単に出来た筈や」
 「そんな事しませんよ!」
 「黙れ! 本谷の時はこうや。 本谷が袖部屋に入った後、おまえも入って行き、
逢引きの約束かなんかして本谷を一時的に緞帳の陰かどこかに隠した。 そして竹田
先生に本谷がいなくなりましたて言うて、袖部屋に入らす。 先生が舞台に出た隙に
本谷を出口から出して、旧講堂の外へ連れ出した。 その後、落ち合った場所で本谷
を殺して、どこかに隠しておいた。 そやろ!」
 「馬鹿馬鹿しい」
 「なめるな! このがきが! もひとつ言うたろか。 本谷の身体に残ってた精液
の血液型はO型や。 おまえの血液型もOやないか。 本谷の爪に残ってた皮膚の血
液型もOや。 すべての証拠がおまえを犯人やと言うとるやないか」
 大門警部補はどす黒い顔をして、調べ机を蹴り上げた。 その前に座っていた梅本
は机の角で胸を打ち、もんどり打って倒れてしまった。 大門警部補はさらに追い打
ちをかけ、倒れた梅本の上に跨って胸ぐらを掴かみ、首を締め上げた。
 「言わんかい! 私がやりましたて言わんかい! おまえが犯人や、犯人なんや!」
 胸を打ち、首を絞められて、梅本は行きが止まって白目を向いた。 それでもなお
かつ大門警部補は揺さぶりながら絞め続ける。
 成田刑事は相変わらず腕組したまま、その様子を眺めている。
 「白状せんかい!」
 「警部補」
 得居刑事が入って来た。
 「何や!」
 大門警部補、梅本の首を絞めながら振り向く。
 「はっ、森真智子の背中の傷から検出された毒物の分析結果がでました」
 「何やった?」
 大門警部補はやっと梅本の首を離して立ち上がった。 梅本はその場に崩れ落ち、
やっとの思いで息を吐き、ぜえぜえと肩で呼吸した。
 得居刑事はそんな梅本の様子などまったく気にかけず、報告を始めた。
 「それが、なんとも」
 「何や!」
 「蛇の毒です」
 「蛇ぃ?」
 大門警部補は厚ぼったい目をまん丸くした。
 「はあ、それもコブラの」
 「コブラ? あのターバン巻いた蛇使いが笛吹いて動かすやつか?」
 「そうです。 一種の神経毒というやつらしいです」
 「そやけど、蛇の毒やったらきょう日、血清か何か注射したら簡単に治るのんと
違うんか? 沖縄でハブに噛まれたかて、最近はほとんど死んでへんやろ」
 「あ、何かその事も言ってました。 ハブとかマムシとかの毒は血管毒と言って、
これは噛まれてもすぐには死なずに、ほっといても一週間くらいはもつそうです。
だから、その間に血清でも何でも注射出来るから助かるらしいんですが、この神経
毒というのは、だいたい一時間くらいで死んでしまうそうです。 だから血清があ
ったとしても間に合わない場合が多いし、まして日本でコブラの血清なんかどこの
病院にも無いそうです」
 「日本に血清が無いていう事はコブラなんかおれへんていう事や。 そのコブラ
の毒がなんでこんなとこに出てくるんや?」
 大門警部補は喉を押さえて床にへたり込んでいる梅本の胸ぐらを掴んで無理矢理
立たせ、横つらを思い切り張り飛ばした。
 「コブラの毒や! そんなもんどこで手に入れたんや! おのれは! 白状さら
せ!」
 大門警部補は悪鬼のような形相になり、怒声を上げて、倒れている梅本をさらに
足蹴にする。
 「凶器はどこや! おまえがやったんや! 言え! 言わんかい!」
 梅本はうずくまり、身体中の激痛に耐えていた。


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憂想堂
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