〈36〉




 扉を開けるとカビの臭いとアルコールの臭いが鼻をつく。 部屋いっぱいにガラス
扉付きの標本棚が立ち並んでいて、その中にはアルコール漬けの生物の標本が整然と
並んでいた。 魚類、爬虫類、哺乳類の死体がアルコールで漂白されて白っぽくなり
ビン詰めされているのは、いかに生物の授業の為とはいえ、あまり気持ちの良いもの
ではない。

 角教諭は部屋の奥にパーテーションで仕切られた一角に案内した。 そこには各種
ビーカーやフラスコ、試験管が並べわれた棚と、流し台があり、さらに角教諭の個人
机と本棚が置かれてあった。 研究机のすぐ後ろにスチール製のガラス扉付き棚があ
り、その中に何種類もの毒蛇のアルコール漬けと多数の薬品、研究用の器機等が並べ
られていた。
 角教諭がポケットから鍵を出し、その扉を開ける。
 「こに入れてあったんです。 ほら、このガラスの小ビンがあるでしょう。 これ
らと同じように並べてあったんですよ」
 高さ五センチ位の透明ガラス製の小ビンが二十個程並んでいる。 中にはそれぞれ
黄色や薄茶色の液体が入っており、ラベルが貼ってある。
 成田刑事は手袋をはめて、その中のいくつかを手に取って見た。
 「随分粘度の高い液体ですね。 ハチミツみたいだ。 えーと、これはハブの毒液
ですか。 これは何と読むのかな? 雨傘蛇、あまがさへびとでも読むんですか」
 ラベルに貼ってある文字をひとつずつ読み取りながら聞いた。
 「随分あるんですね。 ひとつひとつ種類が違うようだ。 よくこれだけ集めまし
たね」
 「ええ、でも、それはほとんど大学の研究室が採取したものですよ」
 「なるほど。 で、先生、仮にですね、この毒を何か刃物のような物に塗って人を
切りつければ、やはりすぐに死ぬんですか?」
 「えーと、それはハブですね。 それならすぐには死にません。 その蛇毒が体に
入ったら、まずリンパ腺が腫れて熱が出て、そして麻痺が起こって、えーと、傷口が
黒く腫れてひどく苦しみますけど、何の手当をしなくても一週間位は死にません。 
すぐに手当をして血清を注射すれば今や大抵は助かりますよ」
 「そんなものですか」
 「ええ、ハブとかマムシの類の蛇毒は血管毒と言いまして、猛毒には違いないです
けど、まあそんなものです」
 「コブラは?」
 「コブラの毒は神経毒と言いまして、直接神経系統に障害をおよぼします。 ほと
んど蛇毒そのものによる苦痛っていうのは無いんですけど、まあ、ものの一時間で死
にます」
 「……ほう」
 検死医が同じような事を言っていたのを思いだした。
 「ほら、その雨傘蛇なんてのは神経毒の代表ですよ」
 「これも……」
 成田刑事はまじまじと、大門警部輔は顔をしかめて薄茶色の液体を見直す。
 「それで、こんな猛毒の事ですから当然いつもこの棚には鍵を掛けてられるんでし
ょう」
 「ええ、掛けています。 私のいない時にこの扉が開いている事はありません」
 「その鍵は先生がいつもお持ちですか?」
 「ええ、いつも持ち歩いています」
 「持ち歩いている?」
 「この棚は私の私物ですから」
 「なるほど、それじゃ、ここの鍵は先生以外の誰も持っていないんですね」
 「はい……いえ、あの、スペアキーを用務員室の鍵庫に預けてあります」
 「鍵庫!」
 小沢真智子の時も本谷真知子の時も、密室状態を形成している要因の鍵。 そのた
びに出てくる鍵はいずれも用務員室の鍵庫に入っていたという。
 「この生物室の鍵も?」
 「はい」
 校長が答えた。
 「また密室パターンですか」
 得居刑事が興奮して言った。
 「そうや、犯人はきっと壁でもすり抜けられるんやろ。 阿呆らし」
 大門警部輔は吐き捨てるように言った。
 「それと、角先生」
 「はい?」
 「ここに蛇の毒液があるという事を先生以外に知っている者はいますか?」
 「それは……かなり、いると思います」
 「かなりいる?」
 「ええ、授業でよく免疫の話をしますし、その時に蛇毒の話もします。 私がそれ
を専門にしているという事は私の授業を受けた者ならたいがい知っていると思います」
 学者タイプによくありがちな、自分の研究成果をやたら人に聞かせたがるというや
つだ。 生徒の前で専門知識をひけらかし、悦に入っていたに違いない。
 「で、現物があるという事も喋った」
 「……はい」
 ここで自分の責任を問われているのに気が付いたのか、角教諭はしゅんと頭を垂れ
た。
 「不注意やな、こんな猛毒やのに。 こらやっぱり学校全体の管理責任やないか。
こんなずさんな事しとるから次から次へと三人もべっぴんを殺されるんや! ほんま
に、この学校はやな」
 大門警部輔が弱みを掴んだで、とばかりにまくし立てた。 角教諭が萎縮したので
ここぞとばかりにカサにかかる。
 「まあまあ警部輔、責任追求は後からでも出来ます。 今は犯人逮捕が先決ですか
ら」
 成田刑事はそんな大門警部輔を抑えにかかった。 あの調子で喋らせると、相手が
下手に出ている限り止めどなく罵倒し続けるものだからうんざりする。
 「とりあえず人員を配して鍵の動きを調べましょう。 角先生、この棚の中の毒液
は一応全部警察に領置させていただきますよ」
 「え? あの、それは……」
 「いいですね」
 今まで隠やかな物腰だった成田刑事が一言だけ目付きを変えて言ったので、角教諭
は思わず後ずさって、震えるように首を縦に振った。
 「先生、コブラの毒液ですけど、盗まれた分量で人間なら何人位殺せます?」
 「え、ええ、えーと、そうですね。 マウスなら二〜三千匹殺せますから……人間
なら、たぶん、四〜五百人位は……」
 「四〜五百人……」
 成田刑事はあらためてため息をついて小ビンの中の液体を見直した。


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憂想堂
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