昔話
1
梅本は顔を腫れあがらせ、唇を切ったまま登校してきた。
現代の警察に拷問が無いというのは嘘だ。
学校に来ても、同級生達は遠巻にぶしつけな視線を送ってくるし、授業中は教師が、
梅本は授業をエスケープし、中庭のベンチにひっくり返った。
自分にとって、あの三人は何だったのか。
大門警部補は、席を離れ際か戻って来て皆が席に着く隙に誰かが毒を投げ入れたんだ
まさしく消えたのだ。
もし、竹田女史が犯人で、失踪の手引をしたのでなければ、だ。
連れ去った?
どうしてわざわざ連れ去ったんだ? たんに殺すのが目的なら何も危険な目をしてま
梅本は内ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
梅本は煙草を落し、周りを見回した。
そしたら、森真智子の場合はどうだ。
そして消えた。
犯人は壁をすり抜けたか?。
梅本はベンチを立ち、落とした吸殻を踏んで消し、旧校舎に向かった。 中央階段を
「梅本さん」
唇を合わせ、吸う。
「そういえば竜崎さんの姿を見ないけど、どうしたのかな?」
顔だけでなく、手首には手錠を食い込ませた跡、すねには警棒で打たれた跡が残って
いる。 髪の毛も無理矢理つかんで引きずりまわされた時にだいぶ抜け、小さくはげ
になっている。
無抵抗の者をよってたかって痛めつける。
しかも、それは部外者の見る事の出来ない取調べ室という密室の中で行われるのだか
ら、痛めつけられた者がいかに抗議をしても、やった本人が知らぬぞんぜぬを通せば
その暴行は立証されない。 その場にいた他の者も皆身内の警察官ばかりだから、身
内の悪行を暴露し証言したりはしない。 警察署ぐるみで事実をひた隠しに隠してと
ぼけてしまう。
まして、本当に犯罪を犯した被疑者ともなれば半殺しの目に合っても抗議さえ認めら
れずに泣き寝入りだ。 巷でなら暴行傷害になる行為でも、警察署内なら隠密理に済
ませられる。 これは警察官の特権とでも言うのだろうか。
だが、梅本は泣き寝入りなどする気は無かった。 病院に行き、傷を見せて、殴打に
よる、と一文の入った診断書を取ってきたところだ。 これを証拠として直接手を出
した大門警部補と得居刑事を告訴するつもりだった。
釈放される時の大門警部補のセリフが耳に残っている。
「ええか、しゃーないから今は帰したるけどな。 おまえが犯人なんは確かなんや。
ちゃんとした証拠を見つけて、必ずおまえをぶち込んだるさかいな。 首洗うて待
ってろ。 逃げようと思うたかてあかんで、ちゃんと見張っとるさかいな。 覚え
とけよ」
まるでやくざの脅し文句だった。
真犯人が見つかったら、こいつらはいろんな理由をつけて決して自分達の前には姿を
現さず、あやまりもしないでとぼけ通すのだろうと思い、歯ぎしりしながら、阿倍野
署を出た。
「どうだ、ブタ箱のメシはうまかったか?」
などとくだらない冗談を言うものだから、真面目に授業を受ける気にもならない。
やつれはてた竹田女史は、
「梅本君、気をしっかり持ちましょうね」
と言ったまま、幽霊屋敷に出て来る老婆のように歩き去った。
三人マチコの顔が浮かぶ。 声や会話を思い出す。 三人共にタイプは違うが、美し
かった。 身体にもそれぞれ個性があった。 乳房の形もウエストの細さも尻の丸み
も、ついさっき、この手で振れていたかのように鮮明に思い出す。
三人共、梅本が初めての相手だと言っていたが、今となっては判らない。
三人のうち、誰が一番真実自分を慕ってくれていたのか、誰が見てくれの容姿だけで
自分を拘束しようとしていたのか、そして、自分は誰を一番恋愛の対象としていたの
か、もう判らない事だった。
三人とは順番に関係を持ち、それぞれに情熱を持ったのだが、思い返せば、肉体関係
だけを追っていた部分ばかりが浮かんでくる。 メンタルな部分での思い出は希薄だ。
実に不謹慎な事だが、三人が死んで悲しいというよりも、あの顔と身体が美しいまま
で灰になってしまって惜しい、という感情が先に湧いてくる。
もっとも、同じような関係は三人マチコだけではない。
梅本が関係を持った女の子は学校内外を合わせると四〜五十人にはなっているだろう。
自分の顔が人並以上だというのは早くから気付いていた。 自分が望めば、関係を持
つ事を拒む女の子はいなかった。 そのままいろんな女の子と関係を持ってきたのだ
が、三人マチコ以外の他の女の子達は被害に遭っていない。
どうして?
犯人の狙いは何だったのだろうか?
三人マチコが狙いだったのか?
いや、国領香代子も襲われているから、三人マチコを特定していた訳ではない。
たまたま新しい順番に殺していったのか? そうだとしたら、犯人の動機の一部は自
分にある。 これから先、自分が関係する女の子は全て狙われるのだろうか。
思えば、事件は全て自分の目の前で起こっている。
小沢真知子の時は一度飲んでなんともなかったコーヒーを、一旦部屋を空け、戻って
来て二度目に飲んだ途端に苦しみだして死んでしまった。 目の前で苦しみながら死
んでいった。 梅本にとって、人間の死をまのあたりに見るのは初めてだった。
成すすべもなく呆然と見ていた。
ろうと言っていたが、自分はコーヒーカップを目の前で見ていたし、戻って来た時も
ずっと見ている。 その場にいた部員の誰であろうと、隙をついて毒を入れる事など
出来なかった。 そうすると毒を入れる隙があったとすれば、やはり、皆が部室を出
ていた間だけという事になる。 しかし、部室には鍵が掛かっていたし、合鍵を持っ
ていたとしても、その間に部室の鍵を開けている者を誰も見ていない。 その間には
廊下に何人もの生徒がいたのに。
窓は開いていたが、三階である。 蔦はよじ登れない。
もし、方法があるとしたら、それは小沢真智子が二度目に飲む時、自分で自分のカッ
プに毒を入れた。
つまり、自殺? でも、自殺なんかする理由があっただろうか? 絵里衣役を射止め、
意欲に溢れていたし、恋もしていた。 青春期の絶頂だったのではないか。 それが
自殺するなんて考えられない。
本谷真知子の時はどうだ?
失踪する直前まで、やはり自分と一緒にいた。
演台上のステージが壊れて、そして本谷真知子は袖部屋に入って行った。 その後ろ
姿を梅本は確かに見ている。 入るふりをして旧講堂を出て行ったりはしていない。
その後、袖部屋に捜しに入ったが、確かに部屋のどこにもいなかった。 入れ違いに
部屋を出て行ったりもしていない。 もし、よほど巧みに出て行ったとしても舞台上
手以外にはひとつしかない出入口の前には竹田女史が立っていたのだから、その目に
止まらない筈がない。
舞台にも出ていない。
袖部屋の窓は開いていた。 しかし、あんな高さからでは飛び降りる事も出来ない。
本谷真知子の場合はあきらかに他殺だった。 誰もいない袖部屋に忽然と現れ、本谷
真知子を連れ去った。
で連れ去る必要はない。 密室の中に自由に出入り出来る犯人なら、その場で殺して
自分だけ消えてしまえば良いのだ。 連れ去らなければいけない理由でもあったのか?
警察の話では本谷真知子は下着を脱がされ、猥褻行為をされた跡があったという事だ
った。 すると、強姦目的で連れ去り、まともに達せなかったから殺したのか? 犯
人は本谷真知子に思いを寄せていた男? 本谷真知子は堅い方だった。 自分以外の
男を相手にはしなかった。 そんな本谷にふられた男の腹いせとも考えられる。
しかし、そう考えると小沢真智子の時の犯人とは動機が違うのではないか。 本谷に
ふられた事が動機になっているのなら、小沢に対しては動機は無い事になる。
もしかしたら、小沢を殺した犯人と本谷を殺した犯人は別なのではないか。 たまた
ま同じ名前の三人が殺されたから、犯人を同一視してしまっているが、もしかしたら
三つの事件は全く別の事件なのかもしれない。 となると考え方は全く変わってくる
のではないか。
高校生が自分の学校の中庭で堂々と煙草を吸うなどとは大胆不敵この上ない行為なの
だが、今はやけくそで、何がどうなっても構わない、という気持ちだった。
しかし、手口という事で考えると、密室を作り出しているところなどは四つとも共通
しているし、犯行機会を見ても共通部分がある。
本読みの途中でコーヒーを入れていた時、ロケ撮に行く事になったのは急な事だし、
演台のステージが壊れたのも全くの偶然だ。
あのカップに毒を入れようと計画していても、コーヒーを飲んでいる最中に全員が部
屋を出ない事には出来ない事だし、本谷真知子を連れ去ろうとして袖部屋で待ってい
ても、ステージが壊れなければ本谷が袖部屋に入る事はなかった。
これらの事件は殺そうとする動機を持ち、ただひたすらチャンスを伺っていた犯人が、
実に見事にワンチャンスをものにした、という事だ。
何人もの人間のいるところでチャンスを掴む為には、よほどいつもそばにいて伺って
いなければならない。 それが出来た者が犯人だ。 犯人はよほど普段そばにいる者!
事件の前も後も周囲の人間の顔ぶれは変わっていないのだから、犯人は今も側にいる!
犯人が、あらかじめ時計塔にひそんでいたのだとしたら、自分が時計塔を逢瀬の場所
として利用しているのを知っている者でないと出来ない事だし、いつ行くか判らない
のに待ちかまえている訳にもいかないだろう。 それなら、二人が入って行くのを見
た者か。 しかし、出入口がひとつしか無い場所で、二人より後から入ってきた者は
なかった。 二人が出ようとした時、中に現れた。
警察も床、壁、天井に抜け穴があるんじゃないかと、かなり捜していたみたいだが、
壁は壁で、穴やどんでん返しなどの仕掛も無かったらしい。
窓は古い鉄枠の為、鍵は掛からない状態だったらしいが、四階の高さになる時計塔に
よじ登って来るのは不可能であり、これも役には立っていない。
空を飛んで行ったとしか思えない。
こうなると、もう何がなんだか訳が判らない。
三つの事件共、自分はその場所にいたのに、三人を助けるどころか、犯人を見る事も
出来なかったし、トリックも判らない。
あの時、ああしていれば、こうしていればと思うだけで、どうにもならない自分に悔
しさがつのるばかりだ。
そのうえ、唇は痛むし、すねは腫れあがっているし、腹は立つしで、頭を抱え込んむ
と涙がにじんできた。
五時限目終了のベルが鳴り、生徒達が教室から流れ出て来た。 中庭にも何人か出て
来てベンチに座ったりおしゃべりしだす。 大きな声で喋っていた女生徒が梅本の顔
を見て急に小声になった。
三階まで上がり、生徒会室に入る。
森真智子が殺された所だ。
時計塔への入口は閉ざされたまま鍵を掛けられていたが、梅本は合鍵で錠を開け、中
に入り、急な階段を上がった。
時計塔の機械室に入る。
狭く、薄暗い部屋。 歯車と支持柱が時計盤の裏で息をひそめている。
梅本は部屋の奥の方から壁を思いきり蹴飛ばしていった。 床から腰までは御影石の
磨き出し、その上はモルタル仕上げだ。 人間が蹴ったくらいではびくともしない。
それでも梅本は三十センチ刻みで蹴っていく。 少しでも蹴った感触や音の違う所は
無いかと思うのだが、部屋をひとまわりしても、どこにも変わりは無かった。
やがて息が切れ、足がいたくなって、その場にしゃがみ込んだ。
訳がわからない。
いきなり階段の下から声をかけられてびっくりした。 慌てて立ち上がって下を見る。
映研部の女の子だった。
「びっくりした。 どうしたの?」
「梅本さん、中庭にいたでしょう。 声かけようかなと思ったら、急に立ち上がって
こっちの方に歩いて行ったから、後ついてきちゃったんです。 そしたら……」
生徒会室に入り、時計塔に上ったんで不審に思ったんだろうか。 階段下で立ったま
まだ。
「上がっておいで」
気味悪がるかなと思ったが、案外平気な顔をして上がって来た。
「何してたんですか?」
「知ってるだろ。 ここで森さんが殺されたの」
「ええ」
「どうしても判らない事があってさ。 調べてたとこ」
「判らない事って?」
「トリック」
「トリック?」
「あのね……いや、いいや」
説明するのが億却だった。 今、事細かに話す気にはなれない。
その子の手を取り、引き寄せた。 柔らかい身体がもたれ込んでくる。 胸に抱き、
長い髪を撫でる。
森真智子が殺される直前、ここで同じように彼女を抱いていた。
「……ひさしぶりね」
「……そうだね」
この子とも以前、関係を持った事がある。 三人マチコに比べると容姿的にはかな
わないが、平均レベルよりはかなり高いところにいる子だった。
やや薄い、いつも濡れたような色の唇が欲情を誘った。
おっとりとした、気品豊かな、良家のお嬢さま然としたところが気に入って、梅本
の方から声をかけたのだった。 だが、しょせん梅本の性格では長期にわたって没
頭出来る相手ではなかった。 ほんの二、三回関係しただけで、その交際は梅本の
一方的な心変わりで終わってしまっていた。
互いに舌を入れ合っては吸い合う。
梅本は彼女のジャケットの背中から入れた手を前に回し、乳房を掴む。
彼女の梅本を抱く手にも力がこもる。
「これ、痛そう。 どうしたの?」
「刑事に殴られたんだ」
「どうして?」
「連中の思い通りの事を喋らなかったからさ」
「思い通りの事って?」
「僕が犯人です。 僕が三人を殺しましたって事」
「違うのに」
「仕立て上げたいのさ。 真犯人が見つからないから」
「ひどい」
「唇だけじゃないよ。 身体中あちこち傷だらけさ」
「誰も止めてくれなかったの?」
「ああ、完全に閉ざされた取調べ室の中だからね。 いるのは敵ばかり。 教頭か竜
崎でもいてくれてたら助かったんだけどね」
まったく今回は教頭松島は事件当時、下校した後でいなかったし。 警察にも乗り込
んで来てくれなかった。 竜崎は竜崎で大阪にいないのだからしかたないのだが。
「彦根に行ってるよ」
「彦根?」
「滋賀県の彦根。 僕の爺さんがいるんだ。 今朝、電話があってね。 昨日、竜崎
が訪ねて来たって言ってた」
「竜崎さんが? どうして?」
「僕にもよく判らないんだけど、僕の御先祖様の事を調べに行ったらしいよ」
「……どうして?」
「さあ? それと、ついでに、やっぱり同じように僕の御先祖を調べに来ていた女子
大生がいたっていうのを聞いて、その事も調べていたってさ」
「……女子大生って?」
「よく判らないけど、偽学生らしくてさ、他人の家の家系を調べたりするから何だか
おかしいと思ったんじゃない。 まったく竜崎は何にでも顔を突っ込むんだから」
「……そう」
「爺さんいわく、竜崎は調子に乗って、その偽学生と同じ事を調べていたってさ」
「それで?」
「いや、それだけしか聞いてないけど。 それがどうかした?」
「え? いえ、竜崎さんらしいなって思って……」
彼女は言葉を切って、梅本の胸を力一杯抱きしめてきた。
梅本も抱き返す。
何度も唇を合わせながら梅本は、一度は切れた関係だけれど、今の心の寄り所として、
この子とまたつき合っても良いなと思った。
森真智子の事も殺人現場である事も忘れて梅本は彼女の柔らかく、しなやかな身体に
に没頭した。
だが、この時、この女生徒の目が異様に吊り上がったのに、梅本は気が付かなかった。