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梅本邸と比べるとかなり新しい屋敷だった。 戦後に建てたものらしい。 建物にはち
「それで、お尋ねはこおの事でございますか」
ここで偶然にこおの事件を見つけて、それから狂乱の殺意を持ち始めたという推理は外れ
「いえ、それが、こおという名前は知られんかったようですが、何やら、ずーっと昔に、
ロマンス? 女心をくすぐる?
「どういう昔話になっているんですか?」
「はー、」
案内された書庫は、書庫というよりは納戸の広いような所だった。
「これによりますとですね。 えーと、えーと……」
「それで、こおはどこに嫁いだんですか?」
「えーと、えーと、これによりますと。 やはり井伊家の家臣に嫁いでおりますね。
「そらまあ、遠い所をようおこしやしたなあ」
白髪で背筋を伸ばした、気品のある老婆だった。 物腰の柔らかな、立居振舞いのゆっ
たりとした人だ。 いかにも由緒正しい旧家の奥方らしい。 梅本吉兵衛老人と対をな
す、と思った。
竜崎はやっとの事で新田家の当主に会えたのだった。
ょっと期待が外れたが、ともかく梅本老人からの紹介という事で、やっと会えた、新田
家の末裔、新田貞子老女史だ。
「ええ、それと、そのこおの事件について最近調べに来た者がいるかどうかをですね」
「ええ、ええ、そういえば来られましたなあ。 暑い盛りの頃でしたけど」
来ていた! ここにも。
「それが女の方でしたなあ。 どこかの大学の学生さんやとか言われとりましたけど」
「背は高めで眼鏡をかけてて、髪は長かった?」
「えーと、眼鏡は……確かかけとりやしたなあ。 髪の毛はどうでしたやろ。 夏の事
ですよってなあ、たばねたはったのと違うやろか」
たぶん間違いない、同一人物や、と竜崎は確信した。
「閲覧者名簿か何かに名前を書き残していきませんでしたか?」
「うちはそういうのは書いていただいておりませんからなあ」
「そうですか。 それで、その学生はどんな事を調べてましたか?」
「こおの事を知りたいからと言わはりましてな」
「いきなりこおの事を? その学生は最初からこおの事を知ってたんですか?」
た。 ここに来る以前からこおの事を知っていた。
どこで? どうして?
江戸時代の初めあたりの新田家の一女が悲恋から殺傷事件を起こしたという話を聞い
たのやけど、その事について教えてもらわれへんやろか、と言うて来られたんです」
「ここへ来る以前から、そんな昔の事を知ってたんですか?」
「はい、まあ私も最初はどうしてこの人がそんな事をお知りなんやろかと思いました。
けど、こおの話は当家の者なら大抵子供の頃に昔話として聞かされていますから、親戚
筋の誰かから何かの折りにお聞きにでもなりはったんやろと思て、まあ深うは考えん
かったんですけど」
「昔話で語り継がれてきたんですか?」
「はい、ちょっとした艶話ですし、今で言うたらロマンスとでも言うんですか、おなご
さんの心をくすぐる話ですからねえ」
「?………」
吉兵衛老人の話とは随分ニュアンスが違うと思った。 梅本家では女の狂気による残忍
な猟奇譚として残っているのに。
これはどうでも聞いてみたい。
「そうですねえ。 お話しましょうか」
「お願いします」
「そしたら、ええと、……昔むかし、新田のお殿様には千代、扇、こおという三人の姫が
おりましてな。 それぞれにお美しい姫やったけど、その中でも特に末のこおが一番愛
らしくて、新田のお殿様もそれはそれは目の中に入れても痛うないくらいな可愛がり
ようだったそうな。 こおが年頃になる頃には、その美しさは家臣の中でも有名になり、
江戸の大殿様までも一目見たさにお膝元に召喚しようとなさった程です。 それほど
お美しい姫の事ですから当然家臣の中にもこおに想いを寄せる者が出てきました。 そ
の中に梅本吉衛門という者がおりましてな」
「梅本吉衛門? 梅本吉兵衛やないんですか?」
「さあ、そうやったかもしれませんけど。 語り継ぎですよってなあ」
「覚書のようなものは残ってないんですか?」
「ああ、あるようですけど、私らはいちいちそんなものを見て確かめたりはしませんよ
って」
史実を追求する歴史学者や吉兵衛老人のような郷土史家のような人でもなければ、江戸
期の古文書など読みはしないだろう。 そんなにして明確な史実を追求するより、昔語
りの中のおはなしの方が夢を呼ぶものだ。
「判りました。 それで?」
「その吉衛門が当家に、こおを嫁にしたいと申し入れてきたのですけど、なにぶん身分の
うるさい時代の事ですから、門前払いとなってしまいました。 それでもあきらめき
れない吉衛門はある日、香が外出をした時に、思いあまってこおをさらい、自分の屋敷
に連れて行ってしもうた。 怒ってしまわれた新田の殿様は供の者を引き連れて吉衛
門の屋敷に乗り込み、吉衛門を成敗しようとなされたんですが、実はこおも以前から吉
衛門の事を憎からず想っておられてな。 吉衛門を手討ちにしようとするお殿様の前
にひれふし、泣いて吉衛門の命乞いをなされた。 こおのあまりの哀願に殿様は怒りを
納め、吉衛門は命拾いをしました。 それでも、一緒になる事だけは許されず、こおは
連れ戻されて幽閉されてしまいました。 殿様はこおに吉衛門をあきらめさせる為にと、
吉衛門にやはり家臣の娘をあてがい、夫婦にしてしまわれた。 やがて吉衛門には子
供が出来、表立っては落ち着いたのですけど、こおの方は忘れるどころか日毎に想いは
つのるばかりで、吉衛門恋しさのあまり、とうとう屋敷を抜け出してしまい、吉衛門
の屋敷にまで走っていかれたのです。 吉衛門にしても妻子は出来たが、やはりこおが
忘れられなくて苦悶の日々を送っていたところでしたので、それこそ二人で手に手を
取って駈落ちようという事になったのです。 ところが、そこへ嫉妬に狂った吉衛門
の妻が懐刀を持って飛び出し、こおを殺そうとしたが、あやまって、こおをかばった吉衛
門を殺してしもうた。 目の前で恋しい男を殺されたこおは狂乱してしまい、吉衛門の
胸に刺さっていた懐刀を抜き、妻に突き立てて殺してしまわれた。 そして、さめざ
めと泣きあかし、自分も死のうとして懐刀を喉元に突き立てようとした時、駆けつけ
た新田家の家臣に取り押えられて一命を取り留めた、という事です。 こおは連れ戻さ
れ、井伊のお殿様のおはからいで梅本家は吉衛門の子が幼くして継ぎ、事は納まった
というお話です。 まあ、古き悲恋物語というところですね」
梅本家で聞いた話とは随分ニュアンスが違う。
梅本家のものでは、狂乱したこおが吉兵衛もその妻もまとめて殺してしまうが、新田家の
ものは吉衛門を殺すのは妻で、こおはその妻一人を殺す。 梅本家ではこおは最初から狂人
じみた扱いになっているが、新田家のものでは、恋しい男を目の前で殺された時、悲し
みのあまりに錯乱してしまうというものだ。 梅本家では吉兵衛が被害者、新田家では
こおが悲恋の犠牲者。 どちらの話が正しいのかは判らないが、どちらも自分の先祖の話
は美化して伝えているのだろう。
こころなしか映研部の制作する映画の脚本と共通点があるようだと竜崎は思った。
この話を知った偽学生もそう感じたんじゃないだろうか。 そして、大阪に戻ってみれ
ば、刻緒役を梅本がやる事になっている。 自分をこおに見立てていたのなら、自分以外
の誰であろうと絵里衣役をするのは許せなかったのではないか。 それで次々と絵里衣
役に選ばれていったマチコを殺していったのではないか。
自分の順がまわってくるまで、殺し続けるつもりだったのか。
「……それからどうなりました?」
「何がですか?」
「こおです」
「さあ、私が聞かされていたお話はこれでおしまいなんですけど……、そういえば、こ
の間来られた娘さんも同じ事を聞かれてましたなあ」
「え? それで?」
「確か、こおは実在の人物やから、系図か家伝書を見せて欲しいとおっしゃられて」
「見せましたか?」
「はい、随分お捜しになられましたけど」
やはり、ここで香と梅本家とのつながりを見つけたのだ。
「僕にも見せていただけますか」
「はい、よろしゅうございますとも」
きちんと整理されていた梅本家の蔵とは違い、木箱本箱がやたら積み上げてある。
新田老女史は奥へと入って行き、積み重ねてある木箱の中から、一つを取り出した。
「家伝書は捜し出すのが大変だと思いますが、系図はこれでございます」
比較的新しい片綴じ本を差し出された。
近年になって再編集ものと思われる。
新田老女史はゆっくりとした手つきで一枚ずつ丹念にめくっていく。
「えーと、これですね。 親兵衛の三女、香。 慶安四年に嫁いでいますね。 事件の
後、連れ戻されて、体面上の事もあり、嫁がされて隠便に事を済まされたんでしょう
ね」
「そうですか」
案外そんなものなのだ。 一波乱あったところで結局は丸めこまれて、後は並の人生を
送っておしまいだ。
こおは事件の後、気が狂ったまま座敷牢の中で生涯を寂しく終えたかとでも思っていた。
その方が、自分をこおに見立てた女の胸をつき、動機にさらに拍車をかけたのではと思っ
たのだが。
嫁いだ事によって、その後の人生が幸せなものだったか、それとも抜け殻で成行きまか
せだったのかは判らないが、一応その先も判るものなら聞いておきたいと思った。
お名前は……彦根藩筆頭御蔵役、国領義直の三男、義久」
「!!……国領っ!!」