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職員室を飛び出した国領香代子は旧校舎を出て、中庭を駆け抜け、新校舎の三年生の
四方いたるところから飛んで来る種類の違うボールを避け、走りまわるサッカー、ラ
その間に国領香代子は中庭を戻り、旧校舎の三階にまで駆け上がった。
相変わらず薄暗い塔の中。 埃と機械油の臭いがする。
「国領っ! 開けろ! おのれっ、こんな扉、叩き壊してくれるわ」
「待つわ、もう一度。 何度でも。 次に出会えるのがまた何十年先でも何百年先で
急を聞いて、聴取を取っていた成田刑事と山神刑事が掛け上がって来たが、やはり事
梅本は病院に運ばれたが、その途中で死亡した。
成田刑事は捜査員をありったけ投入し、学校の各出入口を封鎖し、塀も乗り越えられ
「竹内君、竜崎君から電話ですよ」
教室へ向かった。
二階に上がり、梅本のクラスへ走り込む。
梅本の姿は見えなかった。
「梅本さんは!」
居残っている三年生に尋ねた。
「えっと、さっきまでおったんやけどなあ。 どこへ行ったんやろ」
「美術室に煙草でも吸いにいったんと違うか」
「美術室!」
国領香代子は教室を飛び出し、一階に降りようとしたところで、踊り場から、竹内が
グラウンドを横切って、こちらに向かって走って来るのが見えた。
反射的に廊下を反対に走り、竹内の上って来る反対側の階段を駆け降りた。
「国領っ! 待てっ! 待ってくれっ!」
竹内が悲壮な声で叫ぶ。
国領香代子はその声をすでに駆け降りた一階の階段出口で聞いた。
「北江! 石川! 山本! その女を捕まえてくれ!」
竹内はグラウンドで練習をしているサッカー部やラグビー部の部員達の名前を呼んだ。
名前を呼ばれた連中は練習を中断し、何事かと二階の窓を見上げたが、その隙に国領
香代子はやすやすと走り抜けてしまった。
グビー、野球の合間を縫いグラウンドの端まで来たところで、竹内が一階まで降りて、
グラウンドを走り出したが、途端に、ハンドボール部のボールを思いきり顎に当てら
れ、もんどりうって倒れてしまった。
美術室に飛び込み、立ててあるイーゼルの間を抜け、備品置場の扉を叩いた。
この備品置場は生徒達がよく喫煙に利用している為、いつも内側から鍵をかけられて
いる。
「誰や?」
「国領です。 梅本さんいますか?」
中でがたがたと音がして、すぐに扉が開いた。 三年の男子生徒が出てきて、
「中に居てるよ。 おい、梅本」
と、呼んでくれた。
積み上げられたパネルの陰から梅本が出てきた。
「梅本さん、来て、お願い」
「どうしたの? 息切らせて汗かいて」
「いいから、お願い、早く!」
国領香代子のあまりに真剣な表情と切迫した雰囲気に押されて、梅本は備品置場を出
て、手を引かれるままに駆け出した。
「どうしたの? 何があった?」
「…………」
長い髪をふり乱して走る国領の姿を不審には思いながらも梅本は一緒になって廊下を
走った。 同じ三階の生徒会室に入る。
「国領っ! どこやあ!」
遠くの方で竹内の声が聞こえた。
「何だ、あれは? 竹内じゃないのか?」
「…………」
「どうした?」
「鍵、開けて」
国領は時計塔入口の扉を指した。
ここで梅本は勘違いをした。 時計塔の密室のトリックを国領香代子が気づいたか、
ヒントを見つけて、それを梅本に教える為にわざわざ走って駆けつけてくれたのだと。
言われるままに鍵を開け、階段を上がった。 うしろで国領香代子が扉を閉め、内鍵
を落とした。
「何か判ったの?」
梅本が振り向くと国領香代子は胸の中に飛び込んできた。
まだ息を切らせている。
梅本の胸に伝わる鼓動が早い。
甘い髪の臭いと汗の臭いが鼻をくすぐる。
「香代子」
優しく髪を撫でてやる。 あれだけふり乱していたのに少しもはねたりほつれたりし
ていない。 素直な長い髪だ。
梅本は国領香代子の呼吸が整うまで抱き寄せたままで待った。
少しの間、静かな時間が流れた。
息が落ち着いてきたと思ったら、急に国領香代子の身体の力が抜け、ずり落ち、しゃ
がんでしまった。
「どうした?」
梅本も慌ててしゃがんで顔を覗く。 国領の顔からは血の気が引き、苦しそうに歪ん
でいる。
「大丈夫か? どうしたんだ?」
「吉兵衛……」
国領香代子は目をかっと見開き、絞り出すような声で言った。
「え?」
梅本は国領香代子の口から梅本家の嫡子名が出てきた事に少し意外だとは思ったが、
まだ事態を把握出来ないでいる。
「……よくも、われを裏切ったな…………」
「え?」
「われを捨てて、他の女と…………」
「…………」
国領香代子の顔つきの変化とその口から出る言葉の異様さに梅本は得体の知れない
恐怖を感じ、身体を離した。
「国領! 梅本! そこのおるのは判ってる! 開けろ! 出てこい!」
竹内が扉の外で叫んでいる。 生徒会室まで追い迫って来たのだ。 梅本が気づく
よりも先に国領香代子が気づき、今まで苦しそうにしゃがんでいたのが嘘みたいに
俊敏に立ち上がり、梅本の飛びつき、壁面に押し付けた。
「……大丈夫か? あれは?」
「……ずっと、ずっと昔から……」
「え?」
「愛してた。 初めて、……初めて見た時から」
国領香代子の語り口が変わっている。 声までもが。
「国領……」
梅本は国領香代子の身体を押しやり、壁に這うようにしてあとずさった。
「私は待っていたの」
国領香代子は梅本の目を見据え、ゆっくりと身体を寄せてくる。
梅本は反対側にあとずさる。
国領香代子の髪が塔の窓から流れてくる風に搖れた。
ここの窓はたてつけの古さから、きっちりとは閉まらない。 鍵は掛けられない状態
だ。 あの時も窓には鍵が掛かっていなかった。
梅本は瞬時に理解した。
森真智子を殺したのは国領だ!
この時計塔を梅本が逢引の場所として使っているのを知っていたのは国領香代子しか
いない! 森真智子を計画的に襲えるのは、それを知っていた国領香代子しかいなか
ったのだ!
「何年、何十年、何百年の間、ずっと待ち続けていたの。 香であった時から。
……いえ、もしかしたら、もっとずっと前から待ち続けてきたのかもしれない。
私達二人が出会え、一緒になれる時を。 そして、やっと吉兵衛にめぐり会えた。
もう、これで、と思った。 でも、二人は引き裂かれた。 吉兵衛は死んでしまっ
た。 ……その時、私はもう一度待つ決心をしたの。 だから死ななかった。 何
十年も何百年も待つ為に」
国領香代子の目は全く別人のものになっていた。
梅本はその目を見て、この目は自分を見ているのだが、本当は自分を見ていないのだ
と悟った。
下から竹内の叫びが聞こえてくる。 扉を壊そうとしている音も聞こえてきた。
梅本はその音を聞き、何とか階段の方へ逃げようと思った。
「……私達はやっと会えたの。 でも、おしまいなの。 待ったのに、ずっとずっと
待っていたのに。 運命? そんなの、あんまりよ。 三百年も待って、そして、
二十五年前に出会ったのに、その時も結ばれなかった。 どうして? どうして何度
も繰り返さなければいけないの? 何度待っても、何度出会っても、どうして結ば
れる事はないの?」
国領香代子の瞳から大粒の涙がはらりと落ちた。
手にはいつのまにかカッターナイフが握られていた。 押し出された刃先には琥珀色
の液体が付着している。
梅本は階段の方に走ろうとしたが恐怖で脚が萎えていたのか、時計機械のフレームに
蹴つまずいて、床に転がった。
竹内は今にも扉を壊さんばかりに体当りを繰り返している。
今、竹内が飛び込んで来てくれたら助かる、と思い、声を出そうとするのだが、出な
い。
「この時代でもだめだった。 出会えたのに……」
「…………」
唇が震えて声が出ない。
「私達はどうしても結ばれない運命なの? ……いいえ、そんな事はないわ。 いつ
か、きっと……。 この時代ではだめでも、次に二人が出会えた時には……きっと
……」
国領香代子はゆっくりと近づいて来る。
梅本は必死で立ち上がり、よろめくように逃げた。
も。 待ち続けるわ……」
涙が幾筋も頬を伝っては落ちた。
薄明りの中で光る。
「……だから、私は死なないわ。 私の血が次の世代に残るまで。 次に出会えるの
を待ち続けられるように……」
国領香代子の持つナイフが涙のように光り、梅本に近づいた。
梅本は絶叫した。
時計塔入口の扉を壊して中に入った竹内は、塔機械室の中で顔を抑えてうずくまって
いる梅本の姿を見つけたが、国領香代子の姿は見えなかった。
「梅本! どないした! 国領は?」
竹内は梅本を抱き起こしたが、その顔を見て悲鳴を上げそうになった。
あの端正だった梅本の顔は無惨にも幾筋も切り裂かれ、その傷を中心に大きく青黒く
腫れあがり、皮膚はただれて肉芽がはみ出していた。
息はあるが、もう声を出す気力もないようだった。
窓が開いている。
竹内は窓から外を覗いて見たが、もう国領香代子の姿はどこにもなかった。
件の成り行きを理解出来ずにうろうろするばかりだった。
コブラの毒によるショツク死だった。
あの美しく、端正だった梅本の顔が、この世のものとは思えない、醜く、おぞましい、
ふた目と見られない形相になっていた。
るところは全て見張りを立て、生徒の誰一人も校内から出れなくしてから、学校中を
しらみつぶしに捜索したが、国領香代子はすでに工芸高校を抜け出したものらしく、
その姿を見つける事は出来ず、その行方は杳として知れなかった。
大門警部補は訳も判らず、そやから梅本を釈放したらあかんかったんや! 役に立た
ん調べばっかりやってるよってやないか、と怒鳴り散らしながらやって来たが、その
本人こそ何の役にも立たなかった。
再び竜崎から電話が掛かってきた。
竹内を制して成田刑事が出る。
「竜崎君、何処にいるんだ?」
「もしもし? ん? 竹内と違うな」
「成田だ」
やはり、と思った。 絶望感が竜崎の身体を走った。
「竜崎君! どういう事だ? どうして国領なんだ?」
「……国領はどうしました?」
「消えたよ」
「消えた?」
「いつもの通りだよ」
「どういう事です?」
「さっき竜崎君から電話があった時、国領は聞いていたんだよ。 そして逃げた。
逃げるついでに梅本君を殺してね」
「梅本を……」
竜崎の中をさらに大きい後悔が走った。
国領香代子を助けるどころか、結局誰一人として助ける事が出来なかった。 いや、
それどころか、自分が気をつけていさえすれば、梅本は死なせずにすんだものを。
竜崎は電話ボックスのガラスを叩いた。
「例の時計塔に二人で逃げ込んで、それきりだ。 梅本は中で切り刻まれていて、国
領は例のごとく密室状態で消えていた」
「…………」
「どうなっているんだ? 君は何を知っている? 何が判ったんだ?」
「窓はどうなってました?」
「窓?」
「時計塔の窓です」
「……開いていた」
「……そうですか」
「窓がどうした? やっぱり窓から出入りしていたのか?」
「成田さん、僕は今大阪駅に着いたところです。 すぐにそちらに行きます。 詳し
い話はその時にしますよって。 事件のあらましから、トリックまで」
「君には判っていたのか?」
「……ついさっきに」
「……そうか。 待ってる。 早く戻って来てくれ」
「それじゃ」
竜崎は受話器を置き、うなだれた。
遅かった。
最初から成田刑事と組んでいた方が良かったのかもしれない。
そうしていれば、梅本だけは救えたかもしれなかったのに。
後悔で胸が焼けるように痛んだ。